●PENTAX67 ●smcPENTAX 90oF2.8,165oF2.8,200oF4,300oF4ED,400oF4ED |
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高校時代から憧れていたペンタ67。学生時代は高嶺の花で手が出ず、中古のマミヤ645を主力にしていたが、卒業間近になって先輩から余
剰になった67を譲っていただけることになった。新品でさえも個体差が激しくアタリハズレに悩まされるという67だが、幾度も雑誌を
飾った先輩の愛機とあれば心配はない。こうして、何とたったの4万円ポッキリで愛しのロクナナちゃんは我が家にやってきたのであった。
初仕業は前オーナーの先輩と出掛けた氷見〜神岡貨物ツアー。先輩からレンズをお借りして、まだ紅葉の色づき浅い漆山−神岡鉱山前の俯
瞰でDE重連を極めた。初めてのバスンというシャッター音に痺れたものだった。以来この感触の虜になってしまい、今に至る。 しかし当初は自前のレンズがなく、67ユーザーの同行者から不要レンズを借り受ける、某氏曰く「パラサイト・バケ」であった。そこで、 社会人1年目に貯金の「貯」の字も考えず、給料日のたびにヨ●バシに足を運んで標準系レンズから徐々にラインナップを整備。夏までに 頑張ってED300も手に入れた。しかし、400oだけは踏ん切りがつかず、悩み抜くこと幾星霜…。それは04年の夏のことだった。多忙を極め た夏期の仕事が一段落し、ふと新橋の中古カメラ屋に立ち寄ると、400oの新同品がメーカー希望小売価格(当時)の半額以下で目の前に鎮座 あそばされているではないか。しかもPLフィルター付き。その場で店長に給料日までの取り置きを懇願し、気付けば清水の舞台を飛び降り ていたのであった。あれから2年半。ウチのヨン様は見事減価償却してお釣りがくるくらいの活躍を各地で見せてくれている。 ところで、67の標準レンズの話。初めはセオリー通り105oF2.4を付けていたが、このレンズ、幾人かに使用感を聞くと評判がすこぶる よろしくない。確かに、実際使ってみると、近距離はいいのだが遠景のピンがなかなかこない。我がバケの前ユーザーであった先輩に伺う と90oの方がええで、という答え。結局105oは実働1年弱で中古屋さんへドナドナされ、代わって90oF2.8がメンバーに加入したのだった。 まぁ90oも色々ありますが、当たるときは当たってまっせ! |
●NikonF5,F4s ●AFNikkor 20-35oF2.8,50oF1.4,80-200oF2.8ED AF-SNikkor 28-70oF2.8,300oF2.8ED |
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高校時代以来、叔父から譲ってもらったOM−1で頑張ってきたものの、やはり色々な場面で視野率100%ファインダーやモードラ、それに
F2.8ズームが欲しくなり、大学2年の秋についに中古でニコンF4を入手。確か12万くらいしたと思う。当時はF5が現役フラッグシップ
機で、デジカメなんぞは発展途上という時代。F4も値が張っていたものである(ちなみに現在の中古相場は5万前後…汗)。ただ、これも
上記のペンタ67と同様、思い切ってボディを買ったはいいがレンズが50oしか無いという有様で、当初は標準アングル以外では登板機会
はなかった。初仕業は今は無き有田鉄道のキハ58イベント運転。秒4.5コマと今にして思えば大したことないが、人生初モードラを切った私
はそのスピードに感動したものだった。 間もなくOMの180oF2.8を下取りに出してAFニッコール80-200oF2.8を仕入れ、基本セット完成。ご老体のオリンパスセットを休車扱い にして、以後ニコンが我が家の35ミリ主力機種となった。ところでこのF4というカメラ、各方面で言われているがとにかくファインダー が素晴らしい。明るくてピントの山が実にハッキリしている。その上スプリット・マイクロ十字線入りスクリーンを入れているので使い勝手 は最高!2000年冬の常紋ツアーを皮切りに、山陰国鉄型キハ、北陸ボンネット特急、山陰大サロ御召、名鉄600V廃止など重要なシーンで期 待を裏切らない結果を残してくれた。しかし、先年ひょんなことから中古でF5を購入したことにより35メイン機としての役割に終止符を 打つことになった。今後はサブカメラとして「いい仕事」をしてくれることを期待したい。 2006年3月、ふとしたことからF5を手に入れることになった。大学の先輩が望遠ズームと広角ズームを2台のカメラにそれぞれ付けてスナ ップを撮影しているのを見て、もう1台ボディを買おうか…と思案していた矢先、ビッ●カメラでノートPCを購入したところ何と最大10万 円キャッシュバックキャンペーンが大当たり!!!レジで現ナマ諭吉くん10人セットがリターンしてきた。翌日、その諭吉くん達を握り締めて 中古屋へ直行。7万円強と往時からは信じられぬ低価格で並んでいた美品のF5を即GETしてしまったのだった。少しセレブな気持ちを味わ った2日間だった。 初めは、走りはF4で充分だったので多点測距のF5はスナップ中心に使おうと考えていたが、一度AFの速さ・巻上げの速さを体感すると もう後戻りはできなくなった。気付けばF4は控え選手になってベンチに下がり、常にF5がスタメン出場するようになった。偉大なり、 F5! |
●MamiyaM645SUPER→Mamiya645Pro ●SEKOR80oF2.8N,110oF2.8N,A150oF2.8,A200oF2.8,210oF4N Mamiya-PENTAX67adapter |
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1998年、京都で学生生活を始めるにあたり、鉄活動充実のため中判カメラの導入を決意した。折りしも90年代後半のRM誌では碓氷峠ブー
ムあたりからペンタ67で撮影された写真が誌上を席捲しており、その緻密な描写を垂涎の眼差しで眺めていた私も、いずれは中判を!と
意気込んでいたのだった。しかし、中古屋を何軒か下見しペンタ67&67レンズ群の価格に意気消沈。GWの山陰遠征までにせめてボディ
と標準レンズくらいは揃えたかったが、今から1月分のバイト代では手が出ないことは明らかだった。そこで目をつけたのが645判。しかも
ペンタックスではなくややマイナーなマミヤ645。ペンタはまだ645Nが出ておらず、旧式645でも標準レンズ込み10万弱の値がついていたが、
セミ判の歴史が長いマミヤなら、旧式のM645ボディが3万前後で手に入る。これだ!4月分のバイト代はテレビなどの生活インフラ整備
ではなくマミヤM645 1000S+SEKOR70oF2.8につぎ込まれ、その後夏まで情報源をラジオに頼る生活が続いたのであった。当時の私曰く
「テレビは贅沢品、カメラは必需品」。あながち間違いではない(キッパリ)。 その後うちのマミヤくんは150oF3.5N・210oF4Nと順調にレンズを増やして夏の久大客レツアーや加太越え団臨などで活躍し、メイン機材の 地位を確立していったが、2000年に入って異常をきたし始めた。フィルム送りの精度が下がったのか、ポジ画面が徐々にスリーブの隅にズ レていき、10枚目以降では黒枠部分に表示されるフィルム記号(RVPとか)やコマ番号が画面の一角に食い込んでしまっていたのである!不 覚にもご主人様はしばらく症状に気付かず、たまたま原版を目にした鉄仲間から「VPハミ出してるで!?」といわれて大慌て。この症状は 「VPハミ出し症候群(ヴイピーハミだししょうこうぐん)」と名付けられた。さすがに発売後20年以上経っているカメラだと修理に出しても パーツがないとのことなので、思い切ってボディを買い換えることにした。 こうして新たにやってきたのがマミヤM645スーパー。先代と異なるのは、バック交換ができること、現行の645プロとパーツの互換性が あることなど。発売自体は1988年と古いが、パーツがあるなら修理もできるだろう。ついでにレンズも80oF1.9Nにスイッチした。どうせマ ミヤで頑張るなら、各焦点域でライバルペンタ645より明るいレンズを揃えたいという意地である。学生を終える頃には、使用頻度の最も高 い150oはF2.8に格上げ、さらにAPOレンズ200oF2.8、解放は暗いが300oF5.6も仲間に加えて、ほぼフルラインナップが完成した。 しかし、先述のように先輩から67が転配されてきたことで645ファミリーは第一線からは撤退。現在は300oを手放し(アダプターを介 してペンタ300で代用)て軽量化し、俯瞰用セカンドカメラとして余生を送っている。レンズの描写性は文句なし。現在ボディが歳のため? 不調だが、今後も末永くお付き合いしたいものである。 2007年4月、歴戦の645スーパーは、巻上げ部分などに不具合が目立ってきたため80oF1.9Nと共についに中古カメラ店に放出された。代 わってマミヤ645Proが下取り交換で戦列に加入。付属のレンズは80oF2.8Nと1ランク格下げされたが、何しろ未使用新品ということでボデ ィもレンズもピカピカ!まっさらな箱、まっさらな取説…カメラを新品で買ったことのない私はニヤニヤしながらボディ・ファインダー・フ ィルムバック・ワインダーを組み立て大満足。交換差額はファン誌フォトサロンの原稿料でピタリ補充できるくらいだったので、非常にオイ シイ買物であった。今後の活躍に期待したい。 |
●OLYMPUS OM‐1 ●ZUIKO 50oF1.4,85oF2,100oF2.8,135oF2.8 |
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写真を始めるきっかけになったのは、今から16年も前のこと、中学への進学祝いに叔父が譲ってくれた1台のカメラであった。いつ壊れて
もおかしくないけど可愛がって使ってやってくれ、との伝言とともに手元にやってきたOM−1と50oF1.4。小学生の頃、東京駅や上野駅
で首から提げていたコンパクトカメラとは明らかに違う重量感と精密感に、眺めるだけでニヤニヤしていたものだった。18きっぷで先輩や
友人と乗り鉄旅行に出たときも、肌身離さず持ち歩いた。だが、悲しいことに、小学校卒業したてのサルのようなガキの頭では、絞りやら
シャッタースピードやらと言われても全くわけがわからない(汗)。EF62牽引の客レ「能登」や583系の「はくつる」、鶴見線のクモハ12な
ど、今思うと希少な被写体の多くを手ブレや動態ブレの犠牲にしてしまった。 このカメラの本当の価値を知り、写真の勉強をし、撮影に力を入れ始めたのは、高校に入ってからだった。折りしも、前ユーザーの叔父 がまるごとニコンシステムに乗り換えるとのことで、ZUIKO 75‐150oF4がウチに転配されてきた。念願の望遠レンズを手に入れて、俄然 鉄魂はヒートアップ!高2の夏には、写真部の友人からZUIKO 35-70oF3.5-4.5,Tokina 80-200oF4-5.6という怪しい学校備品のレンズを 拝借して北の大地に旅立った。「C62ニセコ」・深名線・キハ56…青春の思い出は、みんなこのカメラで記録した。純粋にシャッターと絞り のみ、AFもAEもない単純な機構は、鉄ちゃん道入門間もない私に、一瞬への集中力と先を読む力の大切さを教えてくれた。 大学に入る頃には、歪曲収差の激しいズームを売り払い、100oF2.8・135oF2.8・180oF2.8という単レンズ構成に切り替えた。「出雲」浜 田編成狙いで出掛けたGWの山陰、盛夏灼熱の筑豊・久大の客レ、塗装変更直前に何度もアタックした生野峠のキハ181「はまかぜ」、厳冬 の常紋DDダブルヘッダー…車はもちろん、免許も持たない歩き鉄ちゃんだった当時、OM−1の軽量システムには本当に助けられた。 だが、熱心に活動を続けるほど、OMシステムの機能では物足りなくなり、視野率100%のファインダー・モードラ・大口径ズームが欲しく なってきた。そんな思いから大学2回生の夏は例年以上にバイトに精を出し、その秋ついにNikonF4sを手にしたのであった。それでも、 OMの小型ボディは携行に苦にならないことから、その後もあちこちに連れまわった。F4には主にKR系フィルムを入れていたので、O MにはE100系やRVP,RDPUを詰め、中判のMamiya645も含めて3丁切りなどよくやたものだった。現在は完全休車扱いになっているが、 電池を食わない機械式のメリットを活かし、また甦らせたいと画策している今日この頃である。 |
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