GALLERY08 ブルートレイン★Collection 2.ブルートレイン★Collection〜東北編〜 しかし、普通の中学・高校生には東北は遠かった。もっぱらの旅の友となっていた青春18きっぷではダイレクトにアクセスできる列車が無く、行くとすれば日中延々と鈍 行を乗り継いで現地でマルヨするしかない。人間易きに流れるもので、だったらせっかくの休みは効率的に使おうと、夏も冬もついつい大垣夜行で西へ向かうのが習慣の ようになっていた。結局、初めて奥羽本線にブルトレを撮りに行ったのは高校を卒業した春のこと。3月の秋田・青森県境はまだ雪景色だった。 1997年3月、結果はともかく大学受験は一段落。溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、18きっぷを片手に「ムーンライトえちご」で都会の喧騒を後にする。翌日は磐西 非電化(新津−津川)で運転されるC58の「SLえちご阿賀野号」を撮り、村上から「鳥海」を飛び道具に使って二ツ井に乗り込んだ。
上野から上越回りで青森に行く「鳥海」も3月改正で廃止が決まっていた。いや、正確に言うと、陸東経由の「あけぼの」が廃止され、代わって「鳥海」が「あけぼの」 を名乗るようになる。ま、どちらにせよ優雅に裾を引く鳥海山の姿をかたどったマークはもうすぐ見納め。駆け込みとはいえ撮影できたのは何よりだった。しかし、今 思うとなぜこんなマニアックな場所で撮ったのだろう?特別素晴らしいアングルでもないし、光線だって面翳り。当時はあんまり考えずに撮っていたということですな(汗)。 日本海縦貫はそれなりに通っているが、実は東北本線(現岩手銀河鉄道〜青い森鉄道)系統のブルトレは全くと言っていいほど撮っていなかった。何しろ関西在住の学生には、 北東北はアクセスも悪く、コストが掛かって行きづらい。せっかくの長期休みも、どうせ本州の果てまで行くなら海峡を越えて渡道しちまえ! そんなノリでこの一帯はただ 通過するばかり。気づけば、みちのくの名門特急「はくつる」にも廃止の報が流れ、鉄界のカウントダウンが始まっていた。折しも就職で関東に戻った最初の年。これは行 けるか?とチャンスを狙ったが、その夏は岩手・青森が天候不順に見舞われて連日の雨予報(泣)。583系時代から憧れてきた青い鶴のマークは、納得いくまで極めることなく 彼方に飛び去ってしまったのだった。
やがて、大カーブに赤いパイチ牽引の24系が現れる。光線はギリギリ面に回るくらい。でも、贅沢は言うまい。夏の早朝限定のこの場所で、ブルトレ「はくつる」を仕留 めることができた。それだけでもよしとしよう。結果論、これが私にとって東北で見た最後の「はくつる」の雄姿となったのであった。 ひたすら内陸を北上する東北本線に比べて、日本海の海岸線に沿って走る羽越〜奥羽本線は、景色を絡められるアングルに恵まれている。その中でもハイライトと言える のが小砂川−上浜のSカーブ。線路の向こうに棚田を挟んで水平線が広がる、DD51「日本海」時代からの伝統的な有名撮影地である。 初めてこの地を訪れたのが、社会人1年目の2002年7月。夏期講習の合間を縫って、晴れ予報を信じ実家の車を走らせた。確かに「あけぼの」は晴れ!しかし線路に伸び る影をどうかわすか、納得いく解答を出せないまま通過時刻を迎え、中途半端な写真しか残せなかった。その翌年も懲りずに5月に訪問したが、天気が靄って話にならず。 その上線路脇にステンレス製の防風壁ができて落胆した。
この年の夏は、以前から気になっていた道南ブルトレを目指した。短いとはいえせっかくの夏休み、移動手段は愛車AZ−ワゴンのゴン太くんである。仕事を終えてから深夜 の東北道をひた走り、まずは定番二ツ井のオーバークロスにやって来た。怪しげな予報の割には現地は快晴。 県道から見下ろす「く」の字形の線路の周りには、一面真緑の水 田地帯が夏の日差しに輝いている。架線柱の脇の農作業小屋が目立たないよう、左右カツカツの構図でペンタを構えた。
間もなくトンネルの向こうに2灯のライトが光った。ライトの位置からしてパイチに違いない。思ったより早かったな…とよく見ると、カマの色はローズピンク!そう、最 初に登場したのは1時間半遅れの「日本海」であった。普段この場所ではサイドに光線が回らないだけに貴重な1カット!そして、「あけぼの」は思ったよりも遅れずに現 れた。定時より約30分遅延。遅くなればなるほど光線がカタくなるのが心配だったが、9時前には通過してくれたのでそれなりにXだった。 これでこのポイントを撤収し、早々に青森フェリーターミナルに向かう。本当は大釈迦付近で上り「日本海2号」まで撮ってから北海道に渡れればよかったのだが、時期が 時期だけにフェリーの予約が一杯で昼の室蘭行きしか撮れなかったのである。というわけで、せっかくのバリ晴れを無駄にして船上の人に。まぁ、半日くらい青空を捨てた って罰は当たらないよねぇ… と高をくくっていたのが甘かった。道南ブルトレに転戦してから4日間3.5連敗。下りブルトレは全滅し、辛うじて最終日の上り「トワイ」が 仕留められただけだっのであった。後悔先に立たずとは言うけれど、これなら北東北で「日本海」「あけぼの」を撮っている方が幸せだったかも知れない…。 北東北の春は遅い。関東では連休にピークを迎える新緑も、ここ秋田・青森県境の矢立峠では5月の下旬にようやく見頃となる。掲示板によると、盛岡では花輪線で原色58・ 52の組み合わせが運用に入っているという。金曜深夜、天気予報を見て決断を下し、まだ雨の残る東京を後にした。初日は日中一杯キハを追っ掛け回し、夜は小坂鉄道の茂 内駅で腕木を星空バックにバルブ。そのまま大館市街のイオン駐車場でささやかに一献傾け寝袋に包まった。
7時過ぎ、遠方の築堤にブルトレが見えた。今日のカマはローピン。よっしゃ、これで九分九厘勝利は確定である。しばしの間を置いてトンネル出口が光った。轟音ととも に“最後の正調ブルトレ”「日本海」がベッタベタの光線を浴びて登場する。切り位置の違う2台のカメラを時間差でレリーズ。もらった!
この夏も懲りずに車で北海道を目指した。ただ、前年と異なり休みが長めに取れたので北東北もガッツリ巡る。盛岡のキハや小坂鉄道の貨物と併せ、ここ大釈迦の上りブ ルトレもターゲットに入れた。 ちなみに、大釈迦で撮影可能なのは17時頃通過する「日本海2号」のみ。2008年改正で1往復化された後はここで「日本海」はもう撮れない。今でも撮影地ガイドの類には 「あけぼの」も“露出的には”撮れるなんて書いてあるが、地軸の傾きでも変わらない限りどう頑張っても日没後。 それは撮ったうちには入らないだろう。
4年前の改正以降もうこの場所で日の当たったブルートレインは拝めないと思っていた。だが、JRの発表を見ると、幸か不幸か臨時化された「日本海」がいい時間にここを 通るではないか。青森発16時21分ということは、現地通過は40分頃か。また、撮れずに終わった川部−撫牛子の鉄橋下り込みもリベンジができそうだ。カマが東青森のパイチ になるという説もあるようだが、数少ない明るい話題として楽しみに待ちたいと思う。 2007年は梅雨時も比較的晴れに恵まれた、いわゆる「稼げる」年であった。5月末には朝練で神保原の「能登」「北陸」を仕留めた。そして6月。金曜22時、木更津の職場を 退勤しようとしたところでメールが入る。「北東北に進路を取る。合流されたし」チバラギ氏からの出撃指令である。常紋倶楽部管理人のんべい氏も助手席にいるという。至 急帰宅しても集合は0時になるが、3M運転ならどうにかなるかも知れない。日付が変わった頃、我が実家近くでピックアップしていただき、チバラギ号は一路東北道を北に 向かったのだった。 しかし、0時出発で奥羽ブルトレというのはやはりキツかった。未明に給油のため鶴岡市内を徘徊したのが仇となり、コサ−カミではタッチの差で「あけぼの」に間に合わず。 それでも「日本海3号」が撮れると思ったら、私が構えた切り通しのSカーブは絵に描いたような来る・曇るで撃沈。数100メートル離れただけの定番オーバークロスで撮って いたチバラギ氏は晴れたというから、運が悪かったとしか言いようがない。それでも夕方は「日本海2号」をマル秘の大釈迦俯瞰で極めて満足した。
この頃には、翌年春改正で「日本海」が1往復化されることは鉄の間では周知の事実となっていた。だとすると、「はまなす」は再戦が難しいとしても、せめてコサ−カミの 「日本海3号」はリベンジしておきたい。ところが、次に週末に晴れが巡って来た7月7日は所用が入って出撃できず。一方、のんべい隊長やチバラギ氏は高気圧直撃の津軽 半島で「はまなす」迎撃にも成功し雄叫びを上げていたという。よ〜し、次こそは!だが、それから10日ほど後、7月16日に新潟県中越沖地震が発生。信越海線が被害を受け、 9月まで日本海縦貫経由のブルトレは運休。再び「日本海」の雄姿が見られるようになった頃、このアングルは日照限界を迎えていたのであった。 「日本海」が1往復に減便されてしまった年の夏、そろそろブルトレの牙城だった奥羽方面も雲行きが怪しくなったかと、早めに手を打つべく北東北を目指した。いつものよ うに、仕事を終えてから気力体力勝負の終夜運転。しかし、気合いで走り切った翌朝の大館界隈は深い霧に包まれていた。あ〜ぁ、さっぱりヤル気は湧いてこない。糠沢駅で 見送った「日本海」はトワガマだし、そのまま車でフテ寝となった。
このネタを鋭く嗅ぎつけていたのがロン隊長だった。新幹線でやってきた隊長を秋田駅近くのファミレスで拾い、桂根−新屋のストレートでヤツを待ち受ける。しかし、予報は 外れて曇天模様。確かに青い客車を引き連れて現れたのは、側面の「EF81」表記も眩しい95号機だったが、シャッターを切らずに見送った。即座に秋田道に乗って追撃を開始 する。隊長の見立てでは、停車駅の多さと高速がショートカットしていることを勘案すれば、二ツ井辺りで十分追い付けるのではないかとのこと。何はともあれ、初戦の敗戦を 帳消しするにはとことんやるしかない!気合いの走りで糠沢のSカーブに先行し、慌ただしく三脚をセット。バケヨンを据える時間はない。とりあえずF5にサンニッパで構図 を作る。上りの701系が通り過ぎてすぐ、カーブの先から真紅のカマが見えてきた。
本来、ネタガマのブルトレというのはあまり好みではない。ロクヨン茶釜やカシガマの「あけぼの」なんて最悪である。だが、かつて田端のカマを先頭に東北本線を経由してい た頃の姿を彷彿とさせるキューゴーだけは別格。フィルム代を惜しむことなく、全力でモードラを回し切った。撮り終わるや即撤収!次行くぞ、次!
2010年の初夏はやたらと北陸・東北方面に出撃した。5月中旬以降、北陸・羽越・羽越・奥羽・北陸、1週明けてまた奥羽…と週末毎にブルトレ狩りの大遠征。お陰で愛車の距離 メーターはずいぶん回った。身体もこき使い過ぎてガタがきた。
毎年5月も下旬になると青森方面の予報にそわそわするようになる。そう、東日本最難関朝練、中小国の「はまなす」が気になるのである。北東北に高気圧が直撃し文句なしの 晴れ予報が出たら、金曜は気合いで仕事を早く仕上げ、夕方にはジムニー号で出発となる。遠く青森まで700q、東北道全線走破の長旅が幕を開ける。 この日も「天気予報は」晴れだった。しかし、現地は未明から一面の深い霧。 通過30分前になっても 50m先の視界も利かない状況なので即座に撤収を決意した。今からとんぼ返 りすれば、大館以南で「日本海」「あけぼの」が狙えるはず!霧の抜けた青森IC付近はド快晴。こうなったらせめてブルトレはおいしく頂戴しないとヤラれ損である。とりあ えず糠沢のS字を第一目標に碇ヶ関まで高速を飛ばし、後は7号線を南下する。が…矢立峠を越えた辺りからまたも深い霧。白沢−陣場のお立ち台を過ぎても、大館市街を抜け ても、進めど進めど霧の中。結局、糠沢の手前でSカーブは諦めた。晴れていたのは青森ICから矢立峠の手前まで。ならばここか!
67は165oのタテ位置で、35判は80o相当のヨコ位置で構える。間もなく、山一つ向こうの濃霧が嘘のような快晴の下、ローピン先頭の「日本海」がやって来た。
6月下旬、梅雨の晴れ間を縫って再び偏差値80の「はまなす」大学の門を叩く。今日は霧も出ていない。過去数回のチャレンジの中で最も安定した条件である。よし、いける! …が、鋭い朝日が照りつけたのも僅か数分。山の稜線からちょっと上がった高度に帯状の雲が停滞し、列車通過の5分前からお天道様は雲隠れ。結局本番直後の貨物だけがXと いうガッカリな結果で、またも海峡線ツアーは敗れ去ったのであった(泣)。
ペンタ300を装着して、細いケーブルの間からカマの顔を抜く。もうここしかない!という立ち位置に三脚を据え、列車を待った。瑞々しい緑一色のファインダーにローズピン クのカマが登場。上から見ると、3両目の客車の屋根のピンクのまだらが妙に目立つ。よく見ると、前回と全く同じ編成のようだった。
狙い通りの1枚を仕留めたら、早々に長駆千葉までの帰路に就く。片道700q、途中休憩をはさみながら1M運転で約10時間のロングドライブ。今週も気だるい月曜日を迎えるこ とになりそうだ…。 ブルトレ撮影のオンシーズンは夏場、日の長い時期と相場が決まっている。しかも北東北くんだりまで出掛けるのは長期休み中か「はまなす」との掛け持ちの時ばかり。従って 今回の「日本海」・「あけぼの」の写真はほとんど緑一色の景色のみになってしまった。他の季節の写真も欲しいなぁ…そう思う度に脳裏に浮かぶのが、金色田んぼの中を行く ブルートレインの姿であった。今年こそ行ってみよか!10月初旬、コサカミ氏と合流の約束をして、金曜夜の東北道を北に向かった。
しかし、苦労は報われぬもの。定番二ツ井のオーバークロスは深い朝霧の中だった。コサカミ氏と合流していきなり溜め息…。仕方なく晴れ間も覗いていた鶴形−富根のストレ ートに転戦。が、ここも「日本海」通過15分前から霧雲に覆われて撃沈。何のために走って来たんだか、誠にガックリである。でも、諦めてはいけない。朝霧は晴れの前兆とい うではないか!自分にそう言い聞かせて二ツ井に戻ることにした。 戻ってみると、何てことはない、霧は見事に消え去って抜けるような青空と見渡す限りの金色田んぼが広がっていた。普通は85o前後の中望遠で撮るところだが、今日は是非ワ イドで極めたい!ペンタ90で構えてみると、ピッタリ思い描いた構図が出来上がる。8時をちょっと回った頃、奥羽の主役「あけぼの」がやって来た。 「日本海」がなくなった後、羽越・奥羽方面のターゲットは「あけぼの」1本に絞られることになった。強いて言うなら続行のパイチ貨物、日程が合えばTDL臨の583系が加わ るが、それでも往時の賑わいが消えて寂しくなった感は否めない。撮影効率も悪化して出撃に二の足を踏むことも多くなる…かと思いきや、2012年の6〜7月は意外に秋田が良 く晴れた。太平洋側の宮城・岩手がダメでも、秋田は沿岸・内陸ともお日様マークということも一度や二度ではない。ここしか晴れないなら行くしかないか。疲れた身体を引き ずるように、金曜深夜のロングドライブに出掛けたものである。
現地には6時ちょっと前に到着。平日ということもあり一番乗りだった。三脚2本に67を2台体制でセット。300oヨコと400oタテで万全の態勢を整える。6時半過ぎ、緑濃い 谷間に刻まれたS字カーブに、真紅の機関車を先頭にした寝台列車が姿を現した。 例年、休日出勤を余儀なくされる海の日連休だが、どうしたことかこの年は順当にお休みが頂けた。いつもならまだ梅雨前線が居座り続けてるはずの北東北も、なぜか見事な晴れ 予報。だとすれば、行き先は必然的に秋田エリアのパイチ「あけぼの」である。緑のカーペットのような田園が広がる八郎潟界隈の情景を脳裏に描いて愛車のハンドルを握った。
この後は即撤収で高速に乗る。が、計3丁切り体制の解体には時間が掛かった。かつ、能代東で降りるところを、読みを間違えて二ツ井白神まで走ってしまったのが致命傷。目標 の鶴形−富根のアウトカーブ一歩手前で「あけぼの」を見る鉄するはめになってしまった…。 緑美しい鶴形−富根で大きな獲物を逃して約2ヵ月、敬老の日連休に津軽鉄道で客レが走ると聞いてリベンジを企てた。今なら手前の田んぼは収穫前の黄金色に染まっているはず である。LIBERTY氏と組んで金曜晩に出発。夜通し走ること10時間弱でお目当てのポイントに辿り着いた。
2014年3月改正で定期「あけぼの」が落ちると、いよいよ東北のターゲットは最難関の津軽海峡線に絞られてきた。メインの撮影地が集まる蟹田界隈で早朝の夜行列車群に日が当た るのは、夏至を挟んで前後一月半ずつ。とはいえ梅雨が近づくとチャンスは半減する。実質的に勝負できるのは、5月後半〜6月初旬の正味1ヵ月弱しかなかった。しかも、ハード ルを上げているのは撮影期間の短さだけではない。陸奥湾にほど近いこの地は、夏場海から湧き上がる霧に包まれて、数十メートル先の視界も利かなくなることもしばしばだった。 以前なら濃い朝霧に撤退を余儀なくされても、奥羽に転戦して矢立峠以北でそれなりに成果を上げることが可能だった。しかし、「あけぼの」なき後は一回一回が負けられない戦い。 天気予報を見る目も自ずと厳しくなった。とはいえ、ここで尻込みしているわけにはいかない。自身の記憶を振り返っても、中小国(信)の「はまなす」は2007年以来目下7浪中。そ ろそろ合格証の1枚も頂きたいところであった。 我が鉄ちゃん暦から勝手に晴れの特異日と認定している6月1日、夕方から仕事で出張が入ったが、日中一杯空いているなら思い切って朝練にアタックしよう。公共交通機関を使え ば東京−新青森は3時間半。ミッション終了は6時前だから、仕事までに余裕で帰還可能である。三脚2本に500o砲を抱え、土曜の午後の「はやぶさ」に乗り込んだ。
それでも、この難易度の高い区間で晴れただけでもよしとして、撮り終わってすぐにUターン。予め置いておいたプロ4にゴーヨンを付けたF5を載せる。隣にハスキーを立ててサン ニッパ×1.7テレコンを装着したD800も並べた。さぁ、7年越しの課題解消なるか!?しかし、やはり一筋縄ではいかない海峡線、直前になって太陽の高さに帯状の雲が広がってきた。 徐々に光線がデフューズする中、踏切が鳴る。祈るようにレリーズを握り、真紅のナックをファインダーに捉えた。光線来い、光線来い!念を送った甲斐があったのか、再び強まって きた朝日が「はまなす」のマークを鋭く照らし出した。 2015年、海峡線ラストイヤーは、奇跡と言ってよいほど撮影条件に恵まれた。これまでの浪人生活が嘘のようによく晴れる。それに加え、トンネル工事の本格化に伴い、日によって は上り「はまなす」が40分ほど遅いスジで運転されるようになった。これはもう、積年の課題を消化せよという天の意思に違いない(笑)。他に撮るものがほとんどないこともあって、 津軽半島詣での頻度が急上昇することになった。 4月下旬の日曜日、仲間内の鉄ちゃんから遅れ「はまなす」迎撃の第一報が入った。時刻変更のお陰で例年より1ヵ月以上も早く蟹田がシーズン・イン。ということは朝霧にやられ る前の撮影チャンスが大幅に拡大したということである。水曜・日曜休みだったこの年、次の水曜の晴れ予報を確認し、私も早速青森ツアーを企てた。
間もなく朝日が昇る。黄砂のせいかPM2.5のせいか、空気はクリアーではないが、日差しを遮る雲はない。鈍い光線が線路を照らし始めて10分あまり、背後で踏切が鳴ると、遠くか ら2灯のライトが近づいてきた。ISO200設定でレンズも開放2.8のデジはよいとして、バケペンは 1/1000sec f4の限界値。これで露出アンダーなら仕方ない。腹を括ってシャッ ターを切った。 本当は5月が掻き入れ時の海峡線。だが、5月中は天気と仕事の都合で、一度渡島当別に渡った以外は磐西の485系「あいづ」に掛かりきりになってしまった。ようやく重い腰を上げ ることになったのは6月第一週。6月とはいえ、この辺りまでは梅雨入り前のカラッとした晴れが望めるはずである。予報と風向きを確認して、出撃準備を整えた。 出張が長引いたために新青森レンタ最終の新幹線には間に合わなかったが、ありがたいことに仲間の鉄ちゃん氏から合流のお誘いを頂いたので、東京20時20分発の「やまびこ59号」で 盛岡へ。ここでOK9氏のプリウス号に拾っていただき、海峡線に乗り込んだ。
初めてここを訪れてから7年、毎度毎度霧や薄雲にやられ白ナックの貨物の写真ばかりがストックされてきたが、今日という今日は抜けるような青空に全開露出で合格証が頂けそう だった。レリーズを握る手にも思わず力が入る。が、下り「北斗星」を見送った頃から怪しいスジ上の雲が太陽周りをうろつき始めた。ドキドキしながら接近を待つ。やがて誰かの 持つ無線機から「上り、接近」の声。ギリギリ雲はかからなそうだ。鋭い光を浴びたローズピンクの9号機がクッキリと焦点を結んだ瞬間、万感の思いで指先に力を込めた。 この年は、東北北部だけ梅雨の合間に良く晴れた。3週連続休日出勤と多忙だった6月を乗り切り、この週末は一段落。期末試験期間に入り、世間一般と同じく土日休みが頂けたの で「カシオペア・クルーズ」もあって賑わいを見せる海峡線に出掛けることにした。予報は曇り時々晴れと微妙なことを言っているが、近ごろ流行りのGPVでは、日曜朝はスッキ リバリ晴れを示す漆黒の地図。溜まったストレスを解消するため、ダメ元で新幹線に乗り込んだ。
コンデジで動画を回しながら発車を見送り、自らも北を目指す。今回の行き先は迷うことなく蟹田である。明朝のターゲットは「北斗星」「はまなす」「カシクル」の3発。どれを どこでどう仕留めるか…シュミレーションしながら空を見上げると、いつしか闇夜には無数の星が輝いていた。風は朝まで西の風とのこと。このシュミレーションは、まんざら獲ら ぬ狸の皮算用ではなさそうだ!
間もなく、北海道側で撮影している知り合いから所定7連との報告が入る。ややスカるか?とはいえ通過まであと数分、今さらのアングル修正はリスクが大きい。ここは余裕のオト ナ構図ということで腹を括った。遠方で短い鉄橋を渡る音がする。程して踏切が鳴ると、紅い機関車が視界に飛び込んで来た。
その他大勢の大集団よりも移動距離が短かったのが幸いして、再度好みの立ち位置を押さえられた。 サンニッパとサンヨン、2本の300oで銀塩・デジの2台をセッティング。画 面左端でコンクリ法面をカットし右は成り行き次第、あとは動態予測で準備完了である。が、ここでレリーズが2本ともないことに気が付いた。「はまなす」2丁切りで使ったこ とを考えると、恐らく先ほどの撮影地に置き忘れてきてしまったのだろう。仕方ない、ここは苦しいながらも手押しで2台を回すしかない。 刻々と強くなる日差しに、露出は強気のバリ晴れ値。まだ6時を回ったばかりだが、7月の太陽はすでにかなり高い位置にある。日の出直後の「北斗星」から1時間半、海沿いの ストレートに威風堂々の「カシオペア」が登場した。
予想通り、立ち位置はもの凄い人出だった。車列の隙間にレンタを滑り込ませ、機材をつかんで農道へ。立ち位置は広い。線路寄りの中望遠アングルが人気のようだが、どうせ面 潰れの光線である。空も青いし田んぼも青い。ならば、横がち標準ポイントで1秒でも早く三脚を広げよう。脚を伸ばすのももどかしく、ローアングルでダッコちゃんにとりあえ ずデジをセット。視野率100%ファインダーにAF、デジタル水準器があればものの数秒で準備は完了。次にペンタ90を出し、ピントを合わせていたら踏切が鳴った。う〜ん、タイ ムアップか!デジ1丁に集中し、津軽平野にジョイントを響かせる豪華列車にシャッターを切った。 6時30分、ミッション終了。夜行列車3連発の豪華饗宴は幕を閉じた。今すぐ引き返してもレンタの営業所はまだ開いてないだろう。レリーズを拾ったら、瀬辺地の海アングルで 貨物でも撮って引き上げよう。真夏の早朝の夢に酔いしれて、ハンドルも軽く来た道を引き返したのであった。 あれから半年余り、その後は天気と休みのタイミングが合わず、ED79の雄姿は海峡線の北海道側で一度拝んだきりとなった。かつて、「ひかりは西へ」の合言葉の下、山陽新幹 線が延伸するたびに、源氏に追いつめられる平氏の如く伝統ある列車が消えていったという。当然そんな話は本で読んだり人に聞いたりして得た程度の知識に過ぎなかったが、今 振り返るとこの10数年は、同じことが東日本で起きているのをリアルタイムで見ていたのかも知れない。「はくつる」「日本海」「あけぼの」そして対北海道連絡の「北斗星」 「カシオペア」「はまなす」…列車の数自体はそう多くはないけれど、広い東北の各地にその姿を追った夜行列車は徐々に姿を消していった。そして2016年3月22日、最後の下り 「はまなす」の札幌到着をもって、ついに寝台列車の歴史は終焉を迎える。 これは、単に日を跨いで走る客車列車がなくなったことを意味するものではない。確かに、今後も駅のホームで、跨線橋で、鉄道に目を輝かす子どもたちは絶えないだろう。彼ら は時速300q超で走り抜ける新幹線、流麗なフォルムをまとった新型特急、クールなステンレス鋼板に身を固めた新型電車を目の当たりにして鉄道の魅力を感じていくのだろう。だ が、我々が魅せられた「鉄道」はもっと違う何かを感じさせていたはずだ。スピードやスマートさだけが魅力なら、きっと我々は大人になるまでにその世界から離れ、休みの度に 機材片手に列島行脚を繰り返すような酔狂な真似はしていなかったはずである。 “夜汽車”は決して速くはなかった。先頭に立つ機関車は決してスマートではなかった。しかしそこには、遠く離れた土地へ誘う旅の香りが漂い、各地の風景にマッチする存在感 があった。到着時刻とスタイルの奇抜さだけを競う昨今の基準とは全く異なる魅力を、夜行列車たちは伝え続けてくれた。「昔、ブルートレインっていうのがあってね…」そう語 るとき、それを知る世代と知らない世代との間で頭の中に浮かべる「鉄道」のイメージは、きっと全く違ったものになるだろう。
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