東京23時40分発大垣行き、通称“大垣夜行”を初めて知ったのは中学1年生の夏だった。
鉄研の先輩から青春18きっぷの存在を教わり、終業式翌日からの関西〜北陸鈍行ツアーにお供せよとのお誘い。
東京から旅立つには東海道本線の大垣行き375Mか中央本線の上諏訪行き421Mかの二択になると告げられた。
個人的には165系の375Mに惹かれたが、代々木在住の先輩のツルの一声で新宿0時02分発の421Mで出発することになった。
その代わり帰路は上り大垣夜行372Mで帰って来ようということになり、中央本線・飯田線・東海道本線という乗り鉄地獄の洗礼ルートで関西入りし、
京都・金沢、大糸・中央西線経由で木曽福島を回った我々は、最後に中京圏でパノラマカーを乗り倒し、165系のボックスシートで一夜を明かして帰京したのだった。
その冬、下り大垣夜行にどうしても乗りたかった私は、名鉄の赤い電車を撮りたいと先輩に無茶を言って、撮影会の名目で名古屋を訪れた。 インターネットもなければ撮影地ガイドもないので仕方がないとはいえ、中1の小僧が天下の名鉄に事前の下調べもさしてできぬまま突撃するという無謀なツアーゆえ、 自身の未熟な腕も相まって写真自体はロクなものが残せなかった。 だが、寒空の下入線を待ったことと、暖房の効き過ぎで車内が30度超の灼熱地獄だった鈍行夜行の旅だけは存分に満喫したのだった。
新幹線ホーム拡張工事の影響か、10番線にできる長蛇の列を警戒してか、列車はいつしか始発駅が品川に変更になった。 普段は使われない臨時ホームなら誰に気兼ねすることもなく自由席を確保するための場所取り合戦を繰り広げることができる。 旅立ちの日は、家で夕食を摂ってから早々に出発し、新聞を敷いて入線までの数時間をワクワクしながら待つのがルーティンになった。 確か発車の20分ほど前に、165系の11連がホームに横付けされる。ドアが開くと一斉の席取り競争。 一夜の寝床を賭けたフルーツバスケットに無事勝利を収め、いつものように対面ホームに撮影に出る。 しかし、当時の機材と技術では満足な成果はロクに得られず、辛うじて手元に残っているのは高2の冬に貧相ながら三脚というものを据えて初めてバルブしたこのカットだけであった。
「東海道線下り、普通列車大垣行きです。停車駅は、川崎、横浜、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ヶ崎…小田原までは各駅に停まります。 小田原から先、浜松までは快速運転となります。小田原を出ますと、熱海、三島、沼津、富士、静岡、浜松の順に停まります。 浜松から先は三河塩津と尾頭橋を除きます各駅に停まります…」 車内放送で流れて来る遥か遠くの駅名に、長距離列車ならではのワクワク感を感じる。 都内通勤圏の駅に着く毎に通路に立っていた酔客を降ろし、藤沢を過ぎた辺りでボックスシートがズラリと並ぶ急行型電車の車内は旅の雰囲気を醸し出すようになる。 翌日の行程を考えて、深夜1時の小田原までには硬い直角シートに身を沈め、眠りにつくのが常だった。 1996年3月改正まで、375M〜372Mは静岡運転所の165系が使われていた。急行「東海」と共通運用の8連に付属の3連を加えた、グリーン車込みの堂々11両編成。 それは新幹線開通前の在来線華やかりし時代の面影を平成の世に伝えてくれる貴重な存在であり、 宮脇俊三に感化された乗り鉄少年には、憧れの旅を追体験させてくれるタイムマシーンのようでもあった。
また、上り大垣夜行折り返しの325Mは、実家の最寄り駅舞浜から始発で東京に行くと乗り継げるスジだったため、 中学時代に大回り乗車で相模線や八高線辺りを乗り回すとき、高校生になって鶴見線にクモハ12を撮りに行くときに度々利用したものだった。 冬場など、甲高いモーター音を響かせて夜明け前の天下の東海道をカッ飛ばす姿は、近場を軽く回るだけの行程でもそこはかとない旅情を感じさせてくれた。
1996年3月、いわば大垣夜行の“表の顔”であった急行「東海」が373系に置き換えられ、特急「東海」に生まれ変わることになった。 静岡の165系は当然お役御免となり、伝統の普通夜行列車も姿を消すかに思われた。 しかし、多くの利用客からの要望を無視できなかったのか、“裏の顔”たる大垣までの運用は、391M/390M「ムーンライトながら」として存続することになった。 大きな違いは指定席制が取り入れられたこと。確かに一般客にとっては暑さ寒さに耐えながらの席取り耐久レースに巻き込まれることはなくなり、利便性は確実に向上した。 だが、天気とネタを見て突発的に動く鉄ちゃんにとっては、日時が規定されてしまう指定席は不便この上なかった。 以後、夜間の東海道を移動するときに373系を利用した記憶はほとんどない。 定期大垣夜行375M/372Mがなくなるのと時を同じくして私も受験生生活に入り、1998年春に京都で大学生活を始めることになった。 実家のある千葉県と近畿エリアを往復する機会も増え、その度に利用したのが「ながら」に乗りきれない乗客を捌く目的で18きっぷシーズン中に運転されていた、 大垣救済臨こと9375M/9372Mだった。
現役・浪人と2年間離れていたが、鉄ちゃんの現場にズラリと並んだボックスシートと唸りを上げるMT54主電動機の響きはまだまだ健在だった。 我が青春、ここにあり。この旅から帰った数日後、入学式の直前に京都に引越す時はさすがに「のぞみ」で移動したが、 以来学生時代に新幹線で上京することは就職活動の時まで一度もなかった。 数えきれないほど乗った大垣救済臨だが、日常の一部になってしまったために毎回写真を撮っていたわけではない。 それでも幸運なことにポジファイルに残されていたカットを久しぶりに引っ張り出して、当時の様子を振り返っていこうと思う。
この日は神領の165系3連×3本の9両編成だった。外は雨模様だったため、濡れずに撮れる橋上駅舎の下から最後尾狙いで三脚を立てる。 この頃はバルブは中望遠がしっくりくると思っていたようで、100oで撮影。機械式フルマニュアルのOM−1ゆえ、レリーズを握って腕時計の秒針で露光時間を計る。 9秒、10秒、12秒と段階露光でシャッターを切った。 2003年に蛍光灯カブりに強いベルビア100シリーズが出るまで、フィルムでのバルブ撮影はずいぶん手間がかかった。 紫色の色補正フィルターFL-Wは必須だったし、コダクローム系はアンダーにコケがちなのでなるべく長めに露出を掛けることが必要だった。 デジタル全盛の今となっては隔世の感がある。
当時JR東日本の167系は完全に波動輸送対応に特化していたため、元メルヘン車や元パノラマエクスプレスの増結車などリクライニングシートを装備した車両が多く、 キャパ優先の救済臨には上記2編成がほぼ固定で充てられていたという。 ところでこの写真、若かりし頃の私でも角目編成のバルブには抵抗があったらしく、本気撮りのNikonF4ではなくこの頃既に控えに回っていたOM−1で撮影している。 当時よくサブ機に詰めていたのがエクタクロームのダイナハイカラー、略号EBXだった。廉価で実効感度が高めなのがその理由で、赤や黄色の暖色系が鮮やかだった。
この日は1999年12月31日、いわゆるミレニアムの直前で、「2000年問題」なるものが巷間を騒がせていた。 新聞やTV曰く、コンピューターのプログラムで年号を下2桁のみで処理している場合、2000年を1900年として処理が実行され誤作動が生じる可能性があるとされた問題で、 万が一にも鉄道信号システムで異常が発生すると大混乱に陥ることから、この日の大垣救済臨は定刻23時55分ではなく、0時を過ぎてからの発車に変更された。 この1枚が私にとって1990年代最後、いや1000年紀最後のカットとなった。
この日は神領165系が登板。最後尾では、JR東海で唯一原形大目玉を残したクモハ165-108が殿を務めていた。 急行電車全盛期の面影を現在に伝えるこの車両は、当然ながら165系の中でも抜群の人気で、 中央西線の「さわやかウォーキング」の先頭に立つ勇姿が多くの鉄ちゃんの耳目を集めていた。 だが、大垣夜行のスジでは、走りを撮れる所といえば、下りが終点間際の揖斐川橋梁前後の築堤くらい、上りに至っては深夜出発・未明到着で、 銀塩一本の時代では被写体として認識することすら叶わなかった。 原型ライトのこの車両が東京方に連結されていたことが、今思うと非常に残念である。それでもベストは尽くすべし。 主力機F4sに80-200o、フィルムはPKRを奢って神領区のエースをバルブした。 夜の東海道を直角のシートに身を委ねて往来していた頃から20年余りの歳月が過ぎた。 記念に保存してある18きっぷを見ると、最後に大垣夜行を利用したのは社会人1年目の夏休み、西方に「なは」を撮りに行ったときのようである。 初任給がさして高いわけでもなく、初ボーナスはペンタ300EDに注ぎ込んでしまったため、学生時代からの貧乏性が顔を出し延々1500kmの鈍行の旅を選択した記憶がある。 翌年夏休みも九州まで18きっぷで遠征したが、そのときは日中京都まで下って「ムーンライト九州」で関門海峡を渡った。 とにかく単調な景色が延々続く静岡県をオールロングシートの211系で横断するのが辛かった。夜間にボックスシートで岐阜県下までワープできる夜行のありがたさを痛感したものだった。 しかし、持ち運ぶ機材が増え、中古のボロとはいえ自分の車を手に入れると、オンシーズンのみの運転で評定速度も速くない鈍行夜行からは次第に距離を置くようになった。 仕事が忙しくなり、稼ぎに反比例して自由な時間が限られてくれば、遠距離の移動手段は飛行機や新幹線にシフトせざるを得なくなる。 すっかり“大人”が板につき、もう18きっぷで夜行列車に揺られることもなくなった。
そんな中聞こえてきた「ムーンライトながら」運転終了の報。知らぬ間に373系の定期「ながら」は廃止され、近年は18きっぷの時期のみ臨時で運転されていたという。 車両も急行型電車が引退した後は田町の183系、そして185系へと変わっていた。振り返れば、この20年は夜行列車最終章ともいうべき時代であった。 「富士・ぶさ」「北斗星」「カシオペア」といった花形のブルートレインたちが姿を消し、地味に活躍していた「銀河」「はまなす」などの急行もひっそりと消えた。 その最後を飾るように、鈍行夜行の名門列車が終焉を迎える。 決して乗り心地は良くはない。速達性があるわけでもない。ただ、時間さえかければ安く、遠くに行くことができる。その一点だけでも、この列車には大いなる魅力があった。 混沌とした車内、狭いボックスシートで、「袖触れ合うも他生の縁」の言葉通り、たまたま乗り合わせた隣人たちと他愛もない話に花が咲く…。 そんな青春の思い出は、遠い昔語りの世界へと旅立った。 |
トップページへ |