GALLERY14 追憶・紅の古武士たち
4.惜別 岐阜市内線・美濃町線
記憶を辿ってみると、600X区間との関わりは想像以上に長い。初めて青春18きっぷで鈍行の旅を始めた頃、東京から大垣夜行375Mで下って来ると、必ずと言っていいほど朝のひと時を岐阜市内線の乗り歩きに費やしていた。当時のネガで撮った拙い写真を見返すと、そこには北陸鉄道から移ってきた馬面路面電車のモ550や路面区間を堂々闊歩するスターモ510の姿が写っている。徹明町から長良北町への支線はとうに無くなっていたものの、まだまだ岐阜市内の交通の主力として活躍する紅い電車たちの雄姿がそこにはあった。
調べてみると、美濃電気軌道によって市内に線路が敷かれたのは1911年のこと。忠節まで延伸し、岐北軽便鉄道が敷設した美濃北方までの路線とつながったのが1925年だった。翌年には黒野までの区間が開業し谷汲鉄道とも接続、3年後には黒野−本揖斐間も営業を開始して600X西部の形が出来上がった。だが、これらの地元鉄道会社が作り上げた路線網は、1930年に名鉄に合併される。これだけ市内を堂々と駆け巡るトラムが、自治体ではなく大手私鉄によって運行されているというのは珍しいが、こうした中小私鉄買収の流れがあったのだった。
しかし、私企業経営の運命というべきか、乗降客の減少を背景に20世紀末に美濃町線の末端区間が、21世紀に入り揖斐線末端及び谷汲線も廃止されるに至り、中学時代から慣れ親しんだ岐阜市内の赤い電車たちにも、いよいよ終焉の時が来ようとしていた。谷汲線の存在があまりに大きすぎて、しばらく美濃の地から足が遠のいていたが、これは最後の名鉄600Xを堪能するために、久々に思い出の地を再訪しなければならなくなったようだ。
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05・03・21 早田−西野町 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100 |
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この日は、前日から訪れていた大糸線の雪解けが思った以上に早く、道床まる見えで絵にならなかったことから19号線経由で南下し岐阜の街までやって来ていた。本命は東海道を下るユーロライナーを伊吹山バックで仕留めることだったが、それと合わせてカウントダウンに入っていた市内線を撮っておこうという軽い気持ちだったことを思い出す。コインパーキングに車を停めて、まずは忠節橋の北詰めに機材をセット。間もなく、上り勾配にモーター音を響かせて、都電6000形を彷彿とさせる昭和の路面電車スタイルを堅持したモ570形がやって来た。
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05・03・21 早田−西野町 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100 |
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同じ立ち位置から振り返ると、長良川を跨ぐ忠節橋を望むことができる。併用軌道のオーバートラスという独特の造形を入れて電車を待つ。白いモ780形など新型を数本やり過ごすと、遠方から紅いモ570形が登場。先程のヘッドライト埋め込み型の574と違い、ライトが独立した571がやって来た。幕板部にまで掲げられた広告がいかにも路面電車チックでいい味を出していた。
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05・03・21 西野町−早田 NikonF4s AFNikkor20-35oF2.8 RVP100 |
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この区間は終点の忠節に近いため、先ほどのモ571はそれほどせずに折り返してくるはずである。というわけで、今度は忠節橋の南詰にある歩道橋から併用軌道を狙う。重厚な橋の全景を入れるため、広角ズームのワイド端20oで構図を練る。広々とした長良川の河川敷に、遠くに連なる湖北の山々。3月にしてはなかなかの眺望である。景色を眺めていると、そろそろ電車の時刻。運よく車のカブリなく、モ570が帰って来た。
この後は一度近江長岡−醒ヶ井に移動し、原色のロクゴ0番台が牽くユーロライナーを撮影。雛壇ができるパニックの中、冠雪の伊吹山を背に天下の東海道を下る雄姿を記録することができた。これにてミッションは終了のはずだが、どうせここまで来たのなら…と帰り掛けに美濃町線に立ち寄ることにした。
岐阜市内から東に延びる美濃町線は、市内線と同じく美濃電気軌道によって1911年開業した。当初の始発は通り一つ北にある柳ヶ瀬だったが、戦後に徹明通の拡幅工事に伴って徹明町が起点となり、1970年に各務ヶ原線田神からの田神線が開通して新岐阜からの直通列車も運転されるようになった。結果として、徹明町から併用軌道を走る600Xの路線と、新岐阜から田神まで専用軌道を使用する1500Xの路線が競輪場前で合流するという不思議な運行形態となり、そのためにわざわざ複電圧車のモ600形を投入するなど名鉄の謎の気合が感じられる路線でもあった。だが、その割に末端区間の新関−美濃間は1999年に廃止。そして間もなく全区間が消えようとしている。ここの名物、複電圧の馬面電車モ600を捉えようと、北一色の歩道橋で機材をセットした。
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左右とも:05・03・21 北一色−競輪場前 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100
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路面電車と聞くと、関東在住の我々はついつい昔の都電や江ノ電の腰越付近を思い出し、車が頻繁に行き交う街中を泳ぐように進む姿を想像してしまうが、岐阜の街外れまで来ると3階建て以上の建物もまばらになり、車の流れもスムーズになってちょっと拍子抜け。それでもリスク回避に歩道橋のような高い立ち位置はありがたい。目の前を斜めに横切るケーブルがやや目障りではあるが、路面電車感を出そうと80-200oの中望遠行きで周囲の雰囲気を入れながら撮影してみた。
最初にやって来たのは、市内線のモ570を一回り大きくしたようなスタイルのモ590形。昭和の都電チックな外観が絵になる車両である。その続行のモ880形をやり過ごすと、次に遠方からお目当てのモ600形が姿を現した。
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05・03・21 下芥見−上芥見 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100 |
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ここまで来たら、帰路は開通したばかりの東海環状自動車道から中央道に抜けるのが最速ルート。ならば日没までに奥の専用軌道区間でも1発撮影して行こう。下芥見−上芥見で列車を待つ。市街地を走る路面区間とはガラリと変わり、長閑な郊外を駆ける馬面電車を夕方の斜光線で捉えることができた。
大糸線から急遽転戦して、廃止間際の駆け込み的に撮影した600X区間だったが、久々に訪れて再びその魅力を再確認してしまった。本来ならばこれにて見納め…のはずだったが、こうなってしまうと欲求を押さえることは難しい。残された時間は僅かだが、再訪を誓って美濃の地を後にした。
それから10日後のこと、いよいよ名鉄600X区間の最終日。関西-D.W先輩・さささ先輩のコンビが見送りに行くとの話を聞いて、私も同行させていただくことにした。まだまだ駆け出し予備校講師として働きながら教職を履修する苦学生だったこともあり、青春18きっぷを片手に臨時大垣夜行で出発。かつての急行型電車のボックスシートに慣れた身には、189系の簡易リクライニングシートはかえって落ち着かなかったが、久しぶりの夜行列車の一夜を過ごして岐阜に着く。惜別の大パニックが想像される中、今さら車両主体の写真を撮っても仕方ないということで、各所で最後の1日らしいカットを収めようと下芥見駅で集合することになった。
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05・03・31 新岐阜駅前 NikonF4s AFNikkor50oF1.4D RVP100 |
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大垣夜行を岐阜で降り、北口ロータリーから徒歩約5分で名鉄新岐阜駅前へ。「市内線」の表記も今日までである。まずは薄曇りでビル影が出ていないのを良いことに、この看板と電車を絡めて1枚狙ってみることにした。
新岐阜駅改め名鉄岐阜駅の構内片隅のホームから、美濃町線への直通電車が発車する。本線系の大型電車が発着するすぐ脇にポツンと停まる路面電車然としたモ880に乗り込んだ。ナローボディの狭い車内でロングシートは、最終日だというのに地元の人と思しき乗客がまばらに乗るばかり。間もなく岐阜を発車すると、数駅各務ヶ原線を走り、田神線経由で美濃町線へ。先程までと打って変わって併用軌道区間をゴロゴロと走り、郊外へ進むこと約40分、下芥見の駅に到着した。
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05・03・31 下芥見駅 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100 |
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ホームでスナップ中だった先輩たちと合流。ここから先、終点まではスタフ閉塞となるため、乗務員がキャリを受け渡しする姿を見ることができる。さっそく、△マークの通票をもって交換待ちをするところを切り取ってみた。一昔前までは各地のローカル私鉄で日々繰り広げられたであろう日常の光景も、そしてこののんびりとした空気感も、21世紀の現在となってはずいぶん貴重なものになってしまった。
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左:05・03・31 小屋名駅 NikonF4s AFNikkor20-35oF2.8 RVP100
右:05・03・31 小屋名駅 MamiyaM645SUPER SEKOR80oF1.8 RVP100
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3駅先の小屋名駅で、幼稚園の鼓笛隊によるさよならセレモニーが行われるという情報を得て移動した。駅前では、地元の園児が既にスタンバイ。朝のうちは最終日らしい特別感を感じることもなかった沿線だが、昼近くなると徐々に人々が集まってきて、いつにない賑わいを見せるようになる。しばらくして、関行きの下り列車が到着すると、マーチングが始まった。虹色の旗をもって行進し、運転士に花束を渡すこどもたち。あれから20年の時が経ち、彼ら彼女らももう立派な大人になっているはず。あの日の記憶は今も残っているのだろうか。
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左:05・03・31 美濃北方駅 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100
右:05・03・31 美濃北方駅 NikonF4s AFNikkor50oF1.4D RVP100
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午後は揖斐線美濃北方駅のセレモニーへ。列車の到着を前に地元の人々が別れを惜しんで駅に集まってきた。近くの小学生が学校を代表して作文を読み上げ、次いで駅長がマイクを握った。1914年の開業以来約90ねんの歴史を語り、沿線利用者への感謝の念を述べる姿に、駅を取り囲む人々から温かい拍手が沸いた。間もなく、黒野行きの列車が着く。ここで乗務員の2人に花束が贈呈された。ここでも長年に渡るお客さんへの感謝、終電までの安全運転の祈念が語られ、惜しみない拍手が送られる。濃尾平野の西北端を日々淡々と走り続けた鉄道のカウントダウンが間近に迫ってきたことを実感した。
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05・03・31 市ノ坪車庫 MamiyaM645SUPER SEKOR80oF1.8 RVP100 |
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モ780形や880形といった新型メインの揖斐線はそこそこに切り上げて、再び美濃町線に舞い戻る。途中市ノ坪の車庫に立ち寄ると、一足早く運用を終えたのか、市内線のモ570形3両が休んでいた。できれば、路面電車の風情が色濃く漂う彼らの活躍をもう一度見たかったが、これから夜にかけて増え続ける乗客を捌くには小型の単行電車では厳しいと判断されたのかも知れない。トラムなどというお洒落な呼び方よりもチンチン電車という呼び方が似合う彼らに、最後のシャッターを切った。
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05・03・31 北一色−競輪場前 NikonF4s AFNikkor300oF4ED RVP100 |
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だいぶ光線も寝てきたし、夕方の斜光で車両主体の写真も撮っておきたいと、北一色の歩道橋に歩を進めた。前回は80-200oの中望遠域で切り取ったため構図としてはやや中途半端な気がしていた。ならば今日はガツンと行こう!と300oで正面撃ちを狙う。折よく、後追いながら廃止直前にリバイバルカラーに戻されたモ590形593の日野橋行きがやって来た。通りのド真中を大きなパンタグラフも誇らしげに堂々と進む姿が、最終日ながら実に頼もしく映った。
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05・03・31 新岐阜駅前 NikonF4s AFNikkor50oF1.4D RVP100 |
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これにて帰途に就く両先輩と別れ、私は帰りの大垣夜行の時間まで徒歩鉄で600X区間のエンディングをあちこち見て回ることにした。北一色から電車に乗って徹明町まで戻って来ると、交差点の角に立つデパートの入り口では地元放送局が中継をやっていた。今となっては何を喋っていたのかは覚えていないが、掲げられたフリップボードからすると名鉄の歴史を紹介していたのだろうか。それにしても、アナウンサーの後ろのモ510を模した飾りの出来が実に秀逸である。
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05・03・31 徹明町駅 NikonF4s AFNikkor80-200oF2.8 RVP100 |
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いよいよ夜の帳が降りて、名鉄の路面電車たちの終幕が近づいてきた。21時を回り商店街のシャッターも閉まる中、復刻カラーのモ590形が徹明町の電停に佇む。いつもならどうということもない光景も、最終日となれば非日常。多くの人がカメラを手に白と濃緑のツートンを纏った電車に思い思いにシャッターを切っていた。
ところで、鉄道車両以外の人工物をなるべく入れずに撮ろうと工夫する一般の鉄道写真とは異なり、街とセットで撮って初めて絵になるトラムでは、写真の隅々に時代を物語る風俗が写り込む。この1枚を見ても人々が手にするのはスマホではなくまだまだガラケーで、猫も杓子もケータイで写真を撮るという文化も根づいていなかったことがわかる。夢中で各地の鉄路を追っている間にも、時代や社会は知らず知らず大きく変わっていたのだった。
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05・03・31 徹明町駅 NikonF4s AFNikkor50oF1.4D RVP100 |
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22時20分、徹明町から野一色に行く最終電車の発車時刻が迫ってきた。岐阜市内線の忠節行きや田神線経由の新関行きがまだあるため、それ程の賑わいではなかったが、上り大垣夜行で岐阜を後にする私にとっては、これが本当の終電車。運よく、これまで撮影で巡り合えていなかった元札幌市電のモ870形が運用に入った。北の大地から居を移して約30年、独特の大型局面ガラスとステンレスの飾り帯、それに2灯のライトがどこかユーモラスな欧風路面電車も、これが最後のお勤めとなる。もっと沿線各所で撮っておきたかったという心残り半分、それでも一期一会の機会に恵まれたことに対する感謝半分でバルブ撮影のレリーズを握った。
これにて路面電車のある岐阜の街に別れを告げた私は、本当の名鉄600Xの最終電車を知らない。動画などで見るに、市内線も田神〜美濃町線も最後は蛍の光に見送られ、相当な賑わいだったようである。
あの日から20年、人は歳をとり、街は移ろい、社会は変わった。もちろん鉄道を取り巻くあれこれも大きく変化し、あの頃日本のそこかしこに残されていた“その土地らしさ”とか“初めてなのに懐かしさを感じる情景”といったものは、すっかり消え去ってしまった。「合理化」という錦の御旗の下に、ある種の“あそび”とか“無駄”といったものが淘汰され、世の中はずいぶん味気なく、また生きづらくなったようにも感じる。さよならセレモニーで紅い路面電車を見送った子どもたちは、そんな令和の世をどのように生きているのだろう。鉄道あるところに街あり、街あるところに人あり、人あるところに歴史あり。久しぶりに昔の写真を引っ張っり出して、そんな平成中期の「歴史」に浸るのも悪くない。
−完−
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