鉄路百景 GALLERY11.山陰海岸、国鉄の残像01

GALLERY11 山陰海岸、国鉄の残像

1.世紀末に残された「国鉄王国」

90年代末、「山陰」は「国鉄」と同義語になっていた。火付け役はいつもの●M誌。忘れもしない 145(1995年10月号)は、半逆光の餘部鉄橋を紫煙をくゆらせながら駆け抜ける重 連「出雲3号」が表紙を飾った、『国鉄王国「山陰」は今が旬!!』。このタイトルを見て、ここに寄せられたハイクォリティな撮影地ガイドの数々を見て、心逸らなければ鉄ではない。 まさに鉄ちゃん界の「出師表」。言うまでもなく、高校生だった私もこの1冊で白砂青松の但馬・石見路に心惹かれた。だが、この号の発売は8月21日、帰省先の尾道から18きっぷ で帰ったばかりだった。資金も尽き果て、夏休みの宿題に追われるこれからの時期、もはやどうあがいても山陰訪問は不可能だった。しかも、翌年は受験生、その翌年は浪人生…。 軟禁生活を送る間に普通客レが姿を消し、伯備線経由の迂回「出雲」も運転を終えた。永遠に続くと思われた国鉄王国に、崩壊の兆しが見え始めた。

ところが、1998年春、不思議な縁で関西に転居することになった。たまたま日程の都合上腕試しで受けた京都の某大学に合格。東京の私大及び本命の国立大を見事に滑った私は、運命 に導かれるように“みやこびと”になったのであった。「いやぁ、都落ちってやつだね」「何ゆうてんの、都はこっちやで!」地元の友人に突っ込まれながら過ごすこと1ヶ月。い よいよ新天地で最初のゴールデンウィーク、「そうだ、山陰行こう!」と思い立つのはもはや必然であった。

1998・04・29 福知山駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO50oF1.4 RDPU
免許も車も持っていなかった当時、国鉄王国へのアプローチは、DD51牽引の急行「だいせん」だった。山陰本線の終電で福知山に行き、12系の座席でひと眠りして未明の浜坂で下 車。朝一の上りで餘部鉄橋に乗り込もうという算段である。静まり返った深夜の構内に響き渡るデーデーと14系のエンジン音、水銀灯に照らされた深いブルーの車体…。10年余りの 時が経った現在ではほとんど見ることの出来なくなった旅情掻き立てるシーンである。

1998・04・29 餘部−鎧 MamiyaM645 1000S SEKOR 70oF2.8 RVP(+1)
晴れの特異日、緑の日はやっぱりバリ晴れに恵まれた。新緑眩しい餘部のお立ち台で午前中を過ごす。メインターゲットの「出雲」が通過した後も、のんびり構えていれば被写体は 幾らでもやって来た。駅の自動放送が列車の接近を告げると、俄かにトンネル出口付近の木々がざわめきだす。2灯のヘッドライトが暗闇を抜けてきた。轟音と共に鉄橋に現れたの は、何と58・28と47の混結編成であった。

1998・04・30 田儀−波根 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO135oF2.8 RVP(+1)
餘部で出会った大学OBのO氏に山陰西部のイチ推しポイントを伺うと、迷わず田儀−波根の海岸線をお勧めしてくれた。この日はO氏と福部−鳥取で「出雲」を撮った後、単体で 列車移動。周遊きっぷの強みを活かして米子−出雲市間で「いそかぜ」に乗った。低く唸るようなターボ・サウンドと、滑るように車窓を流れる宍道湖の湖面、そして鉄道唱歌のオ ルゴール。見える景色こそ異なるが、遠い昔、祖母に手を引かれて綾部に墓参りに行くときに乗った、特急「あさしお」の記憶が甦った。

田儀のポイントに着いたのは午後遅くになってから。ここでもメインターゲットは「出雲」。浜田往復の1・4号の廃止が7月に迫っていたこともあり、多くの同志がこのポイント に集まっていた。が、天気が晴朗なれどもガス多し。数日続けての晴れの後だけに霞が酷く、今日は条件的によろしくない。「出雲」はまたリベンジするとして趣向を変え、夕闇の 光跡流しにチャレンジしてみた。春の宵、単調な潮の響きに混じって、遠くからタイフォンの音が聞こえてきた。

1998・05・02 小田−田儀 MamiyaM645 1000S SEKOR 70oF2.8 RVP(+1)
翌日からは、出雲神西の駅舎をベースキャンプに小田〜田儀〜波根の海沿い区間を徒歩で回った。この日は鳥取県内の強風の影響で「出雲」が遅延してくるという情報が入った。お っ!ということは、上手くいけばこの界隈で海バック・順光のブルトレが撮れるかも♪ 意気揚々と小田−田儀の祠アングルに張り込んだ。だが、早朝こそ低気圧に伴う強い南風で靄 が消えて視界がクリアーに開けたものの、9時を回ると低気圧本体の接近で一気に天気は下り坂…。せっかくの脳内妄想は、単なる脳内妄想だけに終わってしまった。

連休最終日まで、都合5日間撮影キャンプを続けた。島根半島クッキリのド快晴の日もあった。「おき」が5連に増結されている日もあった。しかし、機材も乏しくアングルも知ら ず、おまけに列車と歩きで移動するアウェーの若造鉄にはどうしても限界があった。撮りたいポイントを撮り切れないまま、「だいせん」で撤収。再訪を誓いながら、漆黒の出雲市 を後にしたのであった。



あれほど再訪を誓ったにも関わらず、何かと野暮用にかこつけて出撃を怠ったまま梅雨を迎え、そしてロクなカットも撮れずに“浜田出雲”は鬼籍に入ってしまった。リベンジなら ず!この悔しさ冷めやらぬ8月、鉄ファン誌に団臨の運転時刻が載った。8月3日に14系寝台が朝の山陰西部を下る。おぉ、車両は若干異なるけれど、これぞリバイバル「出雲」! 仲間内で予定を合わせ、18きっぷで小田−田儀を目指した。

1998・08・03 小田−田儀 MamiyaM645 1000S SEKOR 150oF3.5 RVP(+1)
「行方不明者続出中」という不気味なポスターが壁に並ぶ田儀駅でマルヨ。翌朝は見事に朝からドバリ晴れだった。猛暑の中をてくてく歩いて小田−田儀の段々畑にセッティング。 G.W.に幾度か来たので立ち位置・アングルはもうバッチリである。夏前に中古で買った150oを装着したマミヤ645をメイン、OM−1をサブにして臨戦態勢に入った。間もなく通 過時刻。ヘッドライトが見えた。さぁ!と、その時、上空を一片のちぎれ雲が足早に通過した。あぁっ…(泣)

1998・08・03 小田−田儀 MamiyaM645 1000S SEKOR 150oF3.5 RVP(+1)
14系団臨はちぎれ雲に沈められたが、その一瞬以外はこの日は最高のコンディションだった。海も青く、島根半島もまるで目の前にあるかのようによく見えていた。あまりの晴れ具 合に、昼から一畑電鉄に転戦する仲間と別れ、私は独りでここにしばし残留することにした。この頃の山陰西部は「石見ライナー」や「おき」の他、ローカル運用にも58・28が当たり 前のように入っており、来るもの全てが被写体といっても過言ではなかった。時刻表を眺め、列車が来ればシャッターを切る。蝉の声と潮風の匂いに包まれて過ごしたこの半日は、 まさに至福のひとときであった。その後も何度かこの地を訪れたが、ここまでの条件に恵まれた日は他にない。

1998・08・03 田儀駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO180oF2.8 RVP(+1)




翌年5月は、せっかくの連休もバイトのシフトが悪く遠征を断念。緑の日に名鉄谷汲線を訪れ、5月1・2日はコサカミ氏と因美線・山陰鳥取エリアを巡った。この日は日中キハ 181の「いなば」を追い掛けていたのだが、「夕方、すんごいモノが走るらしい!」という怪情報を聞きつけ、通称“水尻”という湖畔のアングルにやって来た。

1999・05・01 宝木−末恒 MamiyaM645 1000S SEKOR 150oF3.5 RVP(+1)
1999・05・01 宝木−末恒 MamiyaM645 1000S SEKOR 150oF3.5 RVP(+1)
1999・05・01 宝木−末恒 MamiyaM645 1000S SEKOR 150oF3.5 RVP(+1)
さて、その「すんごいモノ」とは…!5月1日は労働者の日、メーデー。その集会のための人員輸送列車が3本、しかもキハ181×7連、58・28×8連、DD51+12系×6連という スペシャル編成で立て続けに下るという。これはメーデーどころか、盆と正月とクリスマスが同時に来たようなものである。喜び勇んでマミヤとOM2台体制を組み、オレンジ光線 を浴びて湖の畔を行く列車にシャッターを切った。



99年の9月は、とにかく「だいせん」にはまった。当たり前のように走り続けてきた「だいせん」が10月改正で気動車化されることになったからである。といっても、運転区間の 両端が電化されているし、上下ともに深夜出発早朝到着というスジのため、非電化スッキリの走行写真は望めない。となると、まず押さえておきたい第1候補はバルブの写真。引 きが取れて、雰囲気があって、できれば長時間があって…と考えると、福知山がまさにベストな選択肢だった。

1999・09・12 福知山駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO100oF2.8 KR
この日はマヤが併結されると聞いてスクランブル発進。我が愛車スーパーカブ号に機材一式を載せて、夜の国道9号を駆け抜けた。コサカミ氏と合流し、国道沿いのファミレスで 時間を潰してから駅に入ると、どこで聞きつけたか1番ホームは総勢約20名の鉄でパニック状態。25分停のお陰で、どうにか隙間を見つけて三脚をセットした。レンズは100o、露 出は、先週アンダーポジを生産した反省から 50sec f5.6 と導き出す。デジと違って解答速報がない銀塩一本だった時代、気合いの1ショットの成否は1週間後までお預けである。 Xに極まってますように!

1999・09・12 西出雲−出雲市 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO100oF2.8 KR
福知山駅で漏れ聞いた他の鉄ちゃんの話によると、鈍足急行「だいせん」は車で追っ掛ければ余裕で間に合い、明朝出雲市近辺でもう1発走りをかますことができるという。架線下 のデーデーは好みではないが、マヤ付き「だいせん」となれば話は別!コサカミ氏と意気投合し、4速MTの初代ミラ号で9号線を爆走した。氏もペーパードライバーから復帰した 直後、私は原付しか免許を持っていなかった頃で、終夜のロングドライブはそれはそれはドキドキしたものだった。

1999・09・12 淀江−伯耆大山 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO135oF2.8 KR
帰る途中に淀江−伯耆大山の定番ポイントに。いつもは「出雲」通過時ばかりでバリ順時間帯に撮るのは珍しいだろうと、「とっとりライナー」を一発。正直この場所はあまり好き ではなかったが、今となっては貴重な写真となった。それより、驚いたのは撮影後のことである。細い側道でうっかり脱輪してしまったミラ号を、通りすがりのゴリマッチョなおっ ちゃんが見て一言。「軽は軽いからな、ヒョイッといけるで!」 と言うが早いか、本当に片腕で元に戻してしまった。我々はおっちゃんの離れ業を、ただ指を咥えて見ているしか なかった。

1999・09・18 福知山駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO100oF2.8 KR
その後も何度かカブ号に乗って福知山駅に通った。深夜1時の下りをバルブしてホームのベンチで仮眠、4時半の上りを撮ってから小浜線に回ったり、ある時は播但線のマヤ検に 向かったりした。しかし、楽しい時間は長くは続かない。この年の10月改正で「だいせん」はエーデル車に置き換えられ、被写体としての魅力を失ってしまうことになった。また、 国鉄時代の雰囲気を残す交通の要衝福知山駅も、その後の機関区の廃止やホームの高架化でかつての面影はすっかりなくなった。あの80年代テイストの夜を味わうことは、もう二 度とできない。



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