GALLERY05 筑豊・久大 汽車の旅 4.さらば、玖珠高原の客車列車 出発は11月30日。晩秋というよりもう初冬の寒さを感じる中、ガッチリ重装備で愛車スーパーカブを駆る。夕闇迫る国道1号を下り、大阪南港から船上の人となった。 今回は、現地で延々長距離回送するのも辛いので、若干お値段は張るが別府行きの関西汽船“さんふらわぁ号”で九州に渡る。デッキで話し掛けられたおっちゃんに 妙に気に入られ、食堂でビールをご馳走になっていい気分で夢の中へ。だが、暖かい室内で寝られるのは今夜まで。 明日からはハードな寝袋マルヨの日々が待ってい る。九州での激X連発を脳内に描きながら、私はいつしか眠りに落ちていた。 翌朝、どんより低い空の別府港から湯布院へ。鶴見岳〜由布岳の山懐を越える山岳ルートは、ここが南国九州であることを忘れさせる寒さであった。重ね着に合羽に 厚手のグローブで身を固めても、容赦なく身体に当たる冷たい風が体温を奪う。サミットを過ぎて湯布院の市街地に下りてきてようやく一息。しかし天気は悪い。適 当に由布院で駅撮りをしただけでこの日は鉄活動を終えた。
明日は全ての定期客レが運用に就く最終日。明後日以降、4日のダイヤ改正に向けて徐々に気動車への置き換えが始まることになる。その夜は由布院駅前の乙丸温泉で 汗を流し、天候回復を祈りながら南由布の駅舎で寝袋に包まった。 翌朝は、まず由布院で名物の客レ三並びを狙う。1年で最も日の出が遅いこの時期、未明のドラマを見るのに天候は関係ない。空を見上げて星は一つも見えなかったが、 とりあえずバイクを市街へと走らせた。 駅の外れからカーブしたホームを望むと、一番左手に鳥栖行きの1820レがすでにスタンバイしており、真ん中のホームには二番手で大分に向かう4823レが滞泊中。そし て間もなく、観客を焦らすように駅舎寄りの1番線にゆっくりと朝一の大分行き、50系の4821レが入線してきた。コイツの由布岳バックを狙って毎日キャンプしていた 僅か4ヶ月前、まさか客レがこれほどあっさりとなくなるとは思ってもいなかった。
早朝の水分峠を越える。路面は凍結していないようだが、生身で風を切るライダーの体感温度はもう氷点下。しかも、前日温泉で手袋を無くしてしまったため、素手でス ロットルを握る私の指は、もうちぎれそうに痛かった。堪らず豊後中村で駅前のコンビニに駆け込み軍手をまとめ買い。これで当面の難は逃れられるはずだ。 この日はさよなら特別マークを付けたDE10 1206号機が昼の1823レの牽引に当たる予定だった。当時からあまり看板や幕には興味をそそられていなかったが、2年間お世 話になった久大客レのエンディングとあらば、気にならないとは言えば嘘になる。天気は曇りベースだったがダメ元気分で豊後中川の沈下橋を訪れた。 それにしても露出がない。今回も無謀にもKRとベルビアしか持参していない私にはかなり厳しい条件である。でもISO100相当で開放F1.4の50oアングルなら何とかな るか…とベルビア(+1)を詰めたF4sを三脚に乗せた。間もなく甲高いデットォのホイッスルが山間にこだまする。同時に厚い雲の合間から奇跡的に日が差し込んだ!急 遽絞りをグリグリと回し、1/500sec f4.5 で勝負!奇跡の逆転晴れで惜別看板をモノにすることができた。
1823レは由布院で約1時間の停を挟んで列番が変わり、4825レとして大分まで下る。そしてカマはそのまま50系の4822レを牽いて豊後森まで戻り、翌朝一番の大分行き4821 レとなって運用を終える。DE10 1206 は、特別看板に描かれたイラストの通り、最終の50系客レに充当されるよう運用が組まれていたらしい。 18時38分、最後の4822レが豊後森に滑り込む。その姿を見届けようと地元の人々が集まり、駅ではささやかなセレモニーが開かれた。高校のブラスバンドによる「蛍の光」 の演奏、そして高校生から乗務員の方への花束贈呈が行われた。無理と知りつつ、取材用のライトの光源を利用してベルビアで強硬撮影。あまり期待はしていなかったが、 雰囲気の伝わるカットが数枚だけ撮れていた。
DE10のエンジンが止まったのを見届けて、現地でばったり会ったロン隊長と国道沿いのさくら食堂に出向く。ロン隊長行きつけの食堂で、九州鉄ちゃんが自費出版した久大 客レの写真集が置いてあるから行ってみようやということだった。と、その行き掛けに駅構内でこんな光景を発見!九州鉄ちゃん諸氏が駅裏に車を終結させて50系をライト アップしているではないか。夜闇に浮かび上がる“レッドトレイン”の姿が美しい。知り合いの姿を見つけて声を掛け、撮影に参加させていただいた。
ロン隊長と別れ、今宵も冷え込む冷水峠を越えて我がベースキャンプ南由布駅へ。明日はいよいよダイヤ改正前日。夏用の薄い寝袋に包まれて、ちょっと足先に冷たさを感じな がら、私は静かに夢に落ちた。 早朝、寝ぼけまなこで見上げた窓の外は一面乳白色の世界だった。夏にも散々悩まされたご当地名物朝霧である。でもまぁガッチリ撮るわけでなければこれも“味”のうち。まず は大分行き4823レを駅停で押さえる。もう7時というのに日の出る気配は全くないが、霧は晴れの前兆というではないか!とプラス思考で勇気を振り絞り、私は凍るような寒さの 冷水峠に向かった。
日田の市街を抜け、筑後川の鉄橋を見上げる河原に三脚を立てる。編成長を計算してガーター1スパン、トラス1スパンちょっとでアングルを決定。早朝の凍えるような冷たさが 嘘のようなポカポカ陽気の中、待つこと数十分、軽やかなジョイント音とともに見慣れたDE10と4連の12系が現れた。
日田の56分停で悠々先行し、豊後中川の沈下橋にやって来た。久大本線の基本中の基本アングルながら、いまだバリ晴れで極めたことがなく単位未修得が続いているポイントであ る。でも今日ならば文句なし!空は高く澄みわたり、背後のスギ林にはまだ色が残る。それでいてライティングは低く柔らかい冬のそれである。最後にして最高の条件。標準より やや広めのマミヤ70oで慎重にアングルを決めた。 12時45分過ぎ、甲高いホイッスルが山間に響く。これがラストチャンス。アングルはよいか?露出は?水平は?全てを確認してレリーズを握る。が、指先に力を入れて待ち構える 撮影者に肩透かしを食わせるかのごとく、普段着の客車列車は、あくまでいつもと同じように最後の旅路を淡々と走り抜けて行った。
列車通過と同時に機材を撤収。慌ただしくバイクに跨り、脱兎のごとく210号線を東へ向かう。この列車をどうにか引治でも仕留めたい。 だが、時刻表上の猶予は豊後森の4分停 のみ。インターバルはほとんどなく、まさに列車とのガチンコ勝負である。とはいえこちらは制限速度に縛れらたスーパーカブ。果たして勝てるのか?抜けるのか?手に汗握るデ ッド・ヒートの末、引治の直線を見下ろす高台に着いたのが列車通過の僅か3分前。どうにか間に合った!ハスキーを手早く据えて、まずは夏にも撮ったマミヤ150oのタテアン グルを構える。まだ時間は大丈夫。続いてOM−1に135oを付けてヨコアングルでクランプにセット。さぁ来い! 引治駅を発車した列車は、高鳴るエンジン音とは裏腹にゆっくりとしたスピードでアングルに現れる。久大マスターのロン隊長曰く「曇りの名所」の引治だが、今日はスッキリと した青空の下、オイシイ光線で1823レを仕留めることができた。
今日一番の大勝負を終えてホッとするのも束の間、次のポイントは峠の向こう、由布盆地である。由布院のバカ停があるとはいえ、サミットを越えることを考えるとのんびりとはし ていられない。機材一式を荷台に括ると、キックペダルを蹴り下ろして再びバイクに跨った。 日中のポカポカ陽気のお陰で、朝に比べればワインディングも快適そのもの。豊後中村から並走してきた線路と別れ、恐ろしく高いガソリンスタンドのある水分峠のT字路を左折す ると、後はひたすら下り込みである。大分道の湯布院ICの脇を抜けて南由布に先回り!定番ポイントには既に数名の先客が三脚を立てていた。ここの由布岳バックは長年の課題だ った。夏の50系はどうにか撮ったが、背後が綺麗に青空に抜けたわけではなく満点には至らず。最後の最後まで勝負がもつれたが、今日の天気ならギリギリで単位が習得できそうだ。 ところが…因縁というのはこれほど恐ろしいものなのか!準備万端、2丁切り体制バリ晴れ露出で待ち受けるも、踏切が鳴ると同時にゲリラ雲が発生。悪夢の筋斗雲テロに見舞われた 私はラストチャンスでも落第し、ついにバリ順の由布岳アングルは永遠の幻となってしまったのだった(泣)。 その夜は知り合いの九州鉄ちゃんと南由布でマルヨ。長きにわたって活躍してきた客車列車と、それを追っ掛けてきた自分たちへの労をねぎらい、持参の道具でささやかに鍋をつつ いた。一杯やりながら心地よいまどろみに身を任せ、寝袋に包まる。翌朝目覚めた頃にやって来る4823レが、本当に最後の最後の客レである。 最後の朝も、由布盆地はやはり霧だった。眠い目をこすりながら三脚を立てていると、静寂の支配するホームに構内踏切の音が響く。白いベールを割いて列車が現れ、ゆっくりと1 番線に滑り込んできた。いつもと変わらぬ朝の光景。ただ唯一ヘッドマークを外されたDE10だけが、これが最後の客車列車であることを伝えていた。露出などわかるわけもなく、 残ったフィルムを全て消費するつもりで絞りを変えながらシャッターを切る。7時ちょうど、4825レ発車。機関車のエンジン音、オハフ・オハのジョイント音、そして最後にスハフ の発電機の唸りが目の前を通り過ぎる。2灯のテールランプが朝霧の中に消えて初めて、私は一つの時代の終わりを見届けたことを実感した。
由布院の志たん湯で体を温めてから撤収。帰りはいつもの新門司−大阪南港の名門大洋フェリーである。由布岳・鶴見岳の脇を抜けるワインディングに凍えながら別府の街に降り、 ひたすら10号線を北上する。 夕方、薄暗くなった苅田の町を走っているときだったろうか、突如後ろで パンッ という爆発音?がした。プスンプスンという音とともに、見る間に後輪がペチャンコになってい き青ざめる。夏のパンク後に応急処置だけで済ませていた後輪のタイヤチューブが今度こそイッてしまったようだ。新門司まであと30q弱、出港は20時。さすがに押して行くわけ にはいかない。慌てて周囲を探すと、幸い街中だけあってすぐ近くにバイク屋の看板を見つけた。今まさにシャッターを閉めようとしているおっちゃんに頼みこんで手当てをして もらう。チューブの破れた部分にパッチを貼って、空気を入れ直しどうにか復旧。トラブルに見舞われながらも出港1時間前には港に辿り着き、無事フェリーに乗り込んだ。すっ かり夜の帳の降りた瀬戸内海をクルージング。窓から見える瀬戸内の島々の灯りが美しかった。 このツアーを最後に、私は定期の普通客レの撮影から遠ざかってしまった。筑豊にはまだ2年弱ほど50系が残ったが、沿線の電化工事が進みポールが林立する中12系も併結するよ うになって編成美の崩れた列車を撮るのは食指が動かず、結局最終日も行かずじまい。北日本に目を転じれば、海峡線には改造車とはいえ50系の快速「海峡」があったが、見るも 無残なドラえもん塗装のED79では撮れと言う方が無理だった。そう、昔ながらの“汽車”の風情を漂わせる正統派客車列車の系譜は、1999年12月4日をもって日本の線路上から 姿を消したのである。まさにこの日は、鉄ちゃん界における大きな時代の転換点であった。
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