鉄路百景 GALLERY05.筑豊・久大 汽車の旅01

GALLERY05 筑豊・久大 汽車の旅

1.筑豊のレッドトレイン

高校進学が決まった94年の春、18きっぷで友人と旅に出た。目指すは九州、筑豊本線。あの頃はまだ撮り鉄の毒に冒されておらず(笑)、全 国でも少なくなったレッドトレインに乗ってみたいというのが主な理由であった。乗り鉄旅行だけあって、出発は新宿0時02分発の松本行 き中央夜行。翌日は、伊那松島機関区をチラ見したり、佐久間レールパークに立ち寄ったりしながら飯田線を全線踏破して京都に至り、「 ムン九」こと「ムーンライト九州」で筑豊入りというルートだった。今回、この稿を書くために当時のネガ写真を取り出してみたが、我な がらよく飽きもせず乗り倒していたものだと思う。

「ムン九」を終点博多で降り、篠栗線の「赤い快速」で桂川へ。そこからいよいよ客レの旅が始まる。本当は冷水峠越えも堪能したかった が、本数があまりに少なく断念せざるを得なかった。原田から峠を越えてきた2838レはDD51 1029を先頭に50系4両の編成。冷房改造前だっ たので、外見的には綺麗に並んだベンチレーターが美しく、乗り鉄的にはジョイント音が良く聞こえる静かな車内が心地よかった。やや殺 風景ながら菜の花咲き乱れる長閑な沿線、かつての炭鉱街道を象徴するような不釣合いに大きな駅、そして単調に刻まれる轍の音。今が90 年代半ばであることを忘れさせるような2時間余りの汽車旅だった。

94・03・27 小倉駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO75-150oF4 HG400
 今から13年前、乗り鉄ついでに小倉駅で1枚。白HのDD、窓の埋められていない50系、そしてSGの蒸気…。せめてポジで撮っておけば!

昼前後は西小倉の駅先端で撮影。関東在住の高校生(になる予定)には九州の列車は全てがもの珍しく、ネガ400・手持ち・お手軽アングルと初 心者丸出しで485系レッドエクスプレス、九州急行色のキハ58・28、811系などをカメラに収めた。午後になって小倉に戻ってくると、折りし も門司港から帰ってくる客レが入線してきた。光線はベッタリ順光!光線の良し悪しなど知らぬド素人だった私にも、綺麗に撮れそうなこ とはわかった。ズームを一杯に伸ばして、バックに2コブの山を配して、ド素人なりに一所懸命考えてシャッターを切った。今あらためて 見返しても、この写真だけはよく撮れている。この1枚が、数年後、私を再び筑豊に向かわせる契機となった。



90年代も末期に入ると、レッドトレインと呼ばれローカル輸送の新たな旗手としてもてはやされた50系客車も、もはや風前の灯となってい た。盛岡地区で岩手山麓を駆けたED75や、羽越の日本海バックで活躍したEF81とのコンビはとうになく、国鉄王国と謳われた山陰からも、 DDとのコラボレーションは消えて久しくなっていた。ファンの熱い眼差しは、いよいよ九州に残された50系最後の聖地、筑豊・久大両線に向 けられようとしていた。中でも久大本線は、風光明媚なロケーションと、日中に12系の列車もあって本数的に効率が良いこともあり、注目 度が高かったと記憶している。鉄ちゃん界の流行に乗って、私も大学1回生の夏は久大を目指した。ただ、そのときにもう一つのターゲッ トとして筑豊にも腰を据えることにした。冷水越え区間がDC化されて以来あまり脚光を浴びなくなった「筑豊のレッドトレイン」を、自 分なりに納得できる形で極めてみたかったのである。

夏の初めはバイトの固め撃ち。ひとしきり軍資金作りに精を出して、手にするのは青春18きっぷ。学生鉄のお約束である。当初は「ムン九」 乗り込みを考えていたが、朝一の客レ撮影には着時間が厳しいこと、日付が変わる岡山までで1日分の切符を消費してしまうことなどを勘 案し、かったるいが日中鈍行で西を目指すことにした。カメラ2台にレンズ6本、三脚2本(まだハスキーを所有しておらず、ボロボロのス リック マスターとマンフロットの#055を併用していた)という装備で京都12時30分発の新快速に乗ったのは、8月9日のことだった。

折尾で筑豊本線の最終飯塚行きに乗り継ぐ。鹿児島本線の高架ホームもなかなかの年季ものだが、立体交差している筑豊線のそれはもっと 凄まじく、薄暗い中に国鉄型気動車のアイドリングが響く様は昭和の匂いプンプンである。もっとも、キハの塗装は小田急色(白地に青帯の 九州一般色)なのだが。最終列車だけあって車内はガラガラ。東水巻・中間…闇の中、ただ機械的に扉が開いては閉まる。車掌室からメーテ ルでも出てきそうな雰囲気だ。

ところで、今夜の宿はまだ決めていない。ここぞという駅舎がある所で駅マルヨの予定である。今でこそマルヨ歴10数年、社員旅行と海外 鉄以外はほぼ全てホテル寝袋インを常宿としている私だが、当時はまだまだ撮影行脚を始めたばかり。果たしてどんな宿にたどり着けるや ら…。途中の筑前植木に食指が動いたが、判断が遅く降り過ごした。結局、直方の一つ先、勝野の駅舎に目をつけ、そこで下車した。

 
2枚とも 98・08・10 勝野駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO50oF1.4 KR
 我が宿、勝野駅。ここも駅全体が国鉄風味満点。人気のない木造駅舎にキハの鼓動だけが響く。

翌朝、気合を入れて早起きし、一番列車に乗ってロケハン。筑前植木で降りてみた。しかし、こうして苦労して前日入り現地マルヨしたに もかかわらず、空は厚い雲に覆われ、無情にも雨粒まで落ちてくる始末。初日から意気消沈…。撮るにも撮れない条件なので諦めて客レ2 本は見る鉄し、当てもなく終点の若松まで行ってみた。

若松は、かつて筑豊炭田の石炭の積出し港として繁栄した街である。最盛期には、駅構内に東洋最大のガントリークレーン(港湾で見られる 船積み用大型クレーン)が設置され、1日に貨車2000両分もの石炭を運んだという。しかし炭鉱衰退から40年余り、往時の栄華を偲ばせるの は不釣合いに長いホームと大きな屋根、そして駅前に静態保存された石炭貨車セラだけになっていた。少しばかり日が差してきた。朝の運用 を終えて留置線で昼寝する50系を、駅名標と絡めてスナップしてみた。

98・08・10 若松駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO50oF1.4 RVP(+1)
 国鉄チックな「若松」の駅名標と50系。ホームを覆う木造の重厚な屋根が、石炭輸送で賑わった頃の面影を今に伝えていた。

聞いた話では、若松体育館の裏手に朝順光のポイントがあるらしい。後学のためと思ってロケハン。なるほど、線路を跨ぐ陸橋から200oク ラスの望遠タテ位置で構えると、バリ順・海バックでピタリである。ここで客レを撮ると門司港行きの1本が捨てになってしまうのが勿体無 いが、沿線で唯一の海バック!レッドトレインのハイライトは間違いなくこの場所と言えそうだ。

その後、日中は鞍手・筑前植木・新入界隈をウロウロ。太陽が顔を出したかと思えばすぐ翳るという猫の目天気で、貨物やキハ66・67を狙うも、 まるで成果は上がらなかった。気合が入ってきたのは、夕方、返しの客レの時間になってからである。午後客レの第一ターゲットとしたの は、筑前垣生−中間の遠賀川の鉄橋。これを筑前垣生の駅先端から中望遠で切り取ればXに決まるはずだ。画面の背後こそ雲が多いものの、 西の空は安定してきたので光線はバッチリ当たるだろう。16時30分通過の6559レのためだけに15時過ぎからセッティングしたが、もちろん 他に鉄ちゃんはいない。DD51+タキ1900のセメント貨物やキハ66・67、果てはキハ200まで撮りながら暇を潰す。そして、16時半。トラス橋 に轟音を響かせて、赤プレDDの牽くレッドトレインがようやくファインダーに姿を現した。

98・08・10 筑前垣生駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO135oF2.8 KR
 筑前垣生の駅先端から、遠賀川のトラスを抜けてくる6559レを狙う。線路脇には電化工事に向けて真新しい電柱が立てられていた。

2本目の2659レは筑前垣生18時26分。いくら九州とはいえ普通に撮るにはキツい時間だ。しかし、だからこそこの駅間を選んだのである。 日没間際のトワイライトタイム、地図上を右上から左下に走る線路の向き、それにトラスという鉄橋の造形…。そう、これだけの条件が揃 ったら、もうシルエットを狙うしかないだろう!ホーロー看板がところどころに残る街並みを抜けて、河川敷に下りてみた。背後にある段 違いの上り線を隠すため、ローアングルにしてカメラ2台をセット。前走りのキハで編成長をチェックし、カマ+客車6つが載るように標 準レンズで構図を合わせる。そうこうするうちに、見る見る日が落ちてきた。バックの空には、夕焼けと怪しい雲の絶妙なグラデーション が現れる。長い夏の日が地平線に消えて間もなく、凸型の影が画面をゆっくりと横切っていった。

98・08・10 筑前垣生−中間 MamiyaM645 1000S SEKOR70oF2.8 RVP(+1)
 2本目の2659レは河川敷に降りてトラス橋シルエット。もっと前に出て空を多く入れれば良かった…。まぁ9年も前のこと、言うだけ野 暮というものか。

初日の撮影を終え、まずは夕方のカットに満足。その後はあまり記憶が定かではないが、飯塚で夕食を調達し、筑前植木でマルヨした気が する。この稿を書きながら、約10年という歳月によって思い出はかなり風化するものだと気付いた。



次の日は、目を覚ますと見事な朝焼けだった。早くもXを確信し、まずはのんびりと中間へ。駅から線路沿いに歩いて15分ほどで遠賀川の 河原に出る。今朝はバリ順の鉄橋カブリツキで2本の客レを一網打尽にしようという算段である。といっても同じようなカットが2枚残る だけなのだが、昨日下見した若松体育館と秤に掛けた末、撮影効率の魔力に負けてしまった(苦笑)。マミヤに150o、OMに100oを装着し アングルを調整。青空入れて、川面を入れて、手前のレンガ橋脚をアクセントにしてセットOK!7時10分、26分と立て続けにやって来る レッドトレインを朝から気持ちよく仕留めることができた。

98・08・11 中間−筑前垣生 MamiyaM645 1000S SEKOR150oF3.5N RVP(+1)
 2日目の朝はバリ晴れ!青い空を背にレッドトレインが行く。手前には旧線のものと思われるレンガ橋脚が残されていた。

日中はキハ66・67とセメント貨物がメインの被写体となる。直方の駅に行くと、タキ1900を連ねたセメント列車が発車を待っていた。当時と しても、DDの牽く専用貨物は貴重な存在だった。広いホームや木造の跨線橋など、周囲はSL時代を思い起こさせる雰囲気満点。駅撮りと はいえ馬鹿にせずに、三脚を据えて数枚シャッターを切った。

98・08・11 直方駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO100oF2.8 KR
 平成筑豊鉄道から継送されるDD51+タキ1900の貨物列車。黒い貨車が長く連なる様は、D50が奮闘した昔日の石炭輸送を髣髴とさせる。

そういえば、昨日は銭湯が見つからず風呂に入り損ねた。さすがにこの暑さでは全身の汗とベタつきが気になる。撮影後、誰もいないのを いいことにホームの洗面台で水浴び。ただし下は脱いでいないので念のため(笑)。

夕方、今日は4年ぶりに客レを乗ってみることにした。筑前垣生から終点の飯塚まで小1時間の汽車の旅。我らが50系客車は、夕闇迫るか つての炭鉱街道を軽快なジョイント音を響かせながら駆けて行く。車内に客は少ない。駅に停まる度、4年前にはなかった冷房の電源音だ けが静かな車内を支配した。19時11分、ボタ山を見ながら終点飯塚に到着。

 
2枚とも:98・08・11 飯塚駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO50oF1.4 KR
 高1の春以来4年ぶりのレッドトレイン乗車。50系の冷房化、運転区間の短縮など変化はあったが、やっぱり“汽車旅”はスバラシイ!

長い夕方が終わり、ようやく辺りが薄暗くなってきた。これからが夜の部〜50系バルブ大会〜のスタートである。2659レで飯塚に着いたレ ッドトレインは、入れ替えの後明朝の6532レに入るまで留置線で滞泊となる。ここが狙い目。バックに筑豊の象徴ボタ山を入れて、カマか ら客車から好きなように撮影し放題なのである。ただし早めに取り掛からないと周囲は真っ暗になり、列車の室内灯も消されてしまう。早 々にゲバを据え、入れ替えを待った。

98・08・11 飯塚駅 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO50oF1.4 KR
 夜の帳が下りようとしていた。背後のボタ山が炭鉱の歴史を物語る。あれから9年、周囲の景色はもう変わってしまっただろうか。

バルブを終え、飯塚の町を彷徨う。何か気の利いた食堂でもないかと歩き回ったが、結局行き着いたのはほか弁。ガランとした駅舎で弁当 を頬張り、今夜もステーションホテル筑前植木に投宿した。



筑豊滞在最終日は、迷うことなく若松体育館に向かった。天気はどこをどうやって回復したのか、雲一つないドバリ晴れ!地平線付近まで スッキリと抜け、昨日以上の好条件である。これはバックの洞海湾も眩しかろう。

現地には列車通過1時間前に着いた。あれこれレンズを変えながらアングルを考えるが、やはりOM180oタテしかないと判断し、スパッと マミヤを諦める。コダクロームの渋い発色で渋い被写体を100年保存。いいぢゃないですか!画面右端で電柱をギリギリカットし(視野率97 %ではなかなか難しい)、天地バランスは背後の煙突から上端までと列車から下端までを同じくらいにしてと…。8時過ぎ、100年保存に耐 えられるよう?練りに練ったアングル内に、最後のDD&50系コンビが姿を現した。煤で汚れてお世辞にも美しいとはいえないが、白Hもま ばゆいDDが先頭に立つ。シャッターを切った瞬間、思わず拳を握り締めた。

 98・08・12 若松−折尾
 OLYMPUS OM‐1 ZUIKO180oF2.8 KR
  洞海湾を背に終点若松を目指す6532レ。バリ晴れ、バリ
 順、白Hで完勝X!!

朝のうちはスバラシイ快晴に恵まれたが、次第に雲が広がってきた。日中はキハ66・67や貨物を追ったものの、各所で来る・曇るにより撃沈。 夕方の客レも勝野−小竹の直線で曇られて敗北した。続行のキハで浦田に急行し、駅近くの築堤で直方への回送を狙ったが、ここでも編成 長を読み違え列車が溢れるという手痛いミス…。何とも後味悪く筑豊を撤退することとなった orz。今夜は厚狭で九州鉄ちゃんの御一行と 合流する予定である。折尾の銭湯で汗を流し、久々の「電車」で一旦九州を後にした。

翌年のRM誌「今なお現役99」(No.192)で、「筑豊の“レッドトレイン”」と題し、このツアーの作品何点かを発表することができた。実は これが私にとって最初の特集ページ採用であり、大学生協の本屋で該当号を見て感動したのを今でも鮮明に覚えている。客レ終焉が間近に 迫った2000年には中井精也カメラマンによる筑豊撮影地ガイドが同誌上で発表され、門司港駅の渋いホームと50系のバックショットの組み 合わせ、鯰田−小竹のトラス橋太陽ギンギンシルエットなど鋭いカメラアイに触発された。しかし、そうはいっても遠方の地、なかなか再 訪の機会に恵まれないまま時は過ぎ、最末期には12系が編成後部に併結されて“レッドトレイン”の編成美は損なわれてしまった。

ローカル輸送の近代化に貢献しながら、電車・気動車への置き換えという流れに抗うことのできなかった薄幸の客車50系。辛うじて残ってい た九州の仲間たちも、99年冬改正で玖珠高原から、01年秋改正で往年の石炭街道から撤退し、紅い車体は線路上から姿を消した。だが、旧 客世代からは半端な存在に見えた彼らも、我々90's 鉄ちゃんにとっては時代の狭間で短い輝きを放った、紛れもないヒーローであった。



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