Memorial GALLERY


     2020.11.23

1996.02.18 武蔵白石−大川
 Canon旧F−1 FL600oF5.6 RDU(+1)

あと1ヵ月足らずに迫った185系の「踊り子」撤退で、国鉄型なるものを被写体にするのがいよいよ困難になってきた。 ここまでの「終わりの始まり」は、過去に何度か書いた気がするが、1996年3月改正だったように思う。 東では165系急行「東海」、八高線のキハ30系列など、西では特急「あさしお」、急行「丹後」が姿を消した。 まだ高校生だった私にとって、遠く関西の名門列車はもちろんのこと、早川界隈ですら頻繁には出掛けられなかったため「東海」も新子安でお茶を濁すだけで見送らざるを得なかった。 だが、コイツだけはきちんと記録しておきたい、そう心に誓っていたのが、鶴見線に残る最後の17m級国電クモハ12であった。

2月も半ばを過ぎたこの日、関東平野部は南岸低気圧の影響か、珍しく大雪に見舞われた。 日曜日だったこともあり、間もなく受験生になろうかという高2の3学期であったにもかかわらず、すわ出撃!と親の目を盗んで始発電車で大川支線に向かった。 当時の首都圏の鉄道網は今と違ってすぐに運休などと日和ったことはせず、公共交通機関としての責務を真面目に果たしていた。 若干の遅れを伴いながらも鶴見で黄色の103系に乗り換えて武蔵白石下車。湿った雪にスニーカーを濡らしながら駅を出てすぐのカーブに三脚を立てた。

といっても、今のようにハスキーだのプロ4だのという立派な脚は持っていない。 伯父から譲り受けた錆びだらけのスリックマスターに、同じく伯父から借り受けたジャンク品寸前のCanon旧F−1とカビまみれのFL600oというおよそ高校生とはかけ離れた装備を載せる。 当然華奢な三脚で大砲は支えきれず、構図は不安定この上ない。その上カビのせいか降りしきる雪のせいか、ピントを拾うのも一苦労。それでもF−1のファインダーは素晴らしかった。 露出など全くない中、RD(+1)で限界一杯の1/60sec、絞り開放で一灯ライトの旧型国電を迎え撃つ。フッとサボの文字がピントを結んだ瞬間、一発きりのシャッターを切った。



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